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例えば、僕らが  作者:
8/13

8.僕らの決別:後篇

「陽菜子、どうして」

「葉月さん……今の話、本当なの?」

 目に涙を浮かべながらそう尋ねてくる陽菜子に、石動はすっかり狼狽した様子だった。顔を真っ青にしながらめいっぱい大きく目を見開き、なんで、どうして、とまるで壊れたロボットみたいに同じ言葉を繰り返している。吐息と共に言葉が漏れる、その唇もわなないていた。

 そんな彼女たちを横目に、僕もまた、狼狽していた。不機嫌そうに顔をしかめた那智から、目を離すことができない。

「市橋さん、何で俺の連絡無視すんの」

「い、今そんなこと関係ないだろ」

 苦し紛れに絞り出された言葉が虚勢であることくらい、彼にはとうにお見通しなのだろう。スッと細められた目は、昔よりずっと鋭さを感じさせて、思わずびくりと身体が揺れた。

 一歩ずつ、那智がこちらへ近づいてくる。陽菜子と石動が見つめあったまま互いに黙っているから、つかつかつか、という彼の革靴の音がやけに大きく室内に響いた。

 立ち上がることもできぬまま彼の挙動を見ていると、だらりと下がっていた腕を荒々しく掴まれる。引っ張られるがまま、僕の身体は不自然に傾いた。

「行くよ」

「どこに」

「いいから」

 掴まれたままの腕を引かれ、立ち上がらされる。

 そのまま僕は那智に連れられ、喫煙室を出た。陽菜子と石動を二人きりにして大丈夫だろうかと一瞬思ったが、二人きりの方が話しやすいこともあるだろうと思い直す。

 しかしそれにしても、こちらが二人きりになる必要性なんてないはずなのに……那智は一体、どういうつもりなんだろう。というか、仕事はどうしたんだ仕事は。

 いろいろ尋ねたいことはあったけれど、ただならぬオーラを放った那智の背中に言い知れぬ恐怖を感じ、おとなしくされるがままに引っ張られておくことにする。

 途中ですれ違った沢城が、僕と那智の姿を見て驚いたように目を見開いていた。けれどやっぱり那智の纏う雰囲気に圧されたのか、声を掛けてくることはなかった。あいつにも、後で問い詰められることになるだろう。


 那智が僕を連れてきたのは、事務所内の男子トイレ……それもどういうわけか個室だった。通常人一人が用を足すだけの分しかないスペースに、大の大人二人が無理矢理入っている状態だ。

 一番奥の個室へと僕を押し込めた那智は、自らもその中に入ると、後ろ手に鍵を掛けた。カチリ、という音がひどく無機質に聞こえて、条件反射のように背筋がぞっとしてしまう。

 狭い室内でどうしていいか分からずに立ちすくんでいると、閉まったドアに身体を預けた那智が、目を閉じながら小さく溜息を吐いた。

「……それで?」

 そっと開かれた那智の瞳が、僕の姿を捕らえる。

「何が、ですか」

 自分でも予想外なほど、強張った声が出た。

 僕の反応にピクリ、と右眉を上げた那智は、無意識に震えていた僕の手首を荒々しく掴む。パシリ、と乾いた音がしたかと思うと、そのまますぐ後ろに迫っていた壁へと押し付けられた。

 顔が、近い。その事実に、心臓がうるさいくらい早鐘を打つ。掴まれた場所が、不意に熱を持ったように感じた。

「俺に、何か言うことがあるんじゃないの、市橋さん」

 彼の言う通り、那智に言いたいことならいくらでも思いつく。そのほとんどが疑問で、つい感情のままに全てを矢継ぎ早に放出してしまいそうな衝動に駆られたけれど、ぐっと我慢をした。

 代わりに、努めて静かな声で――おそらく今僕が一番彼に尋ねたかったことであろう、至極シンプルな質問を一つ。

「どうして、ここに?」

 フッ、と那智が表情を歪める。演技の時やテレビ出演しているときに見せる器用なそれとは違う、一見そう呼べるかどうかも怪しいような、ひどく不器用な笑み。

 公の前に姿を現すときの、俳優としての小清水那智ではない。カメラがない場所での彼は、ある意味で雄弁な表情になることがある。

 それを何故今僕の前で見せるのか……そう考えるたびに、僕の心は余計に掻き乱されてしまって、苦しくなる。やめてくれ、と叫びたくなる。

 あえてそうしないのは、せめてもの意地かもしれない。

 目の前に広がる整った顔の持ち主は、ゆっくりと歪めた薄い唇を開いた。

「……簡単に言えば、同じ事務所のよしみ」

 陽菜子との関係のことを言っているのであろうことは、すぐに分かった。言われなくても知ってるし、そもそも今はそんなことを聞いているわけではないと反論しようとしたところで、那智はさらに続ける。

「少し前から、彼女に相談を受けていたんだ。マネージャーの様子が、変なんだって。……仕事が少しずつ増えていくことを嬉々として報告すれば、おめでとうと言って一緒に喜んではくれる。けれどその時の笑顔はいつも、どこか寂しげに見えるんだってさ」

 石動は先ほども言っていたように、いつか来る別れのことを知っていた。だからこそ――彼女自身は無意識だったんだろうが――鬱積していた寂しさや悲しさ、切なさなどの感情が、顔に出てしまっていたんだろう。

 そして聡い陽菜子は、それを見抜いていた――……。

「それで今日……一時間くらい前かな。俺のところに電話があったんだ。仕事が終わったあとすぐに、マネージャーが急いでどこかに行っちゃったんだって。その横顔がひどく切羽詰まってたから、気になるんだって。それで俺は彼女と落ち合って、一緒にここに来たってわけ」

「お前の仕事は」

「今日はオフだよ。ある意味、運がよかったね」

 よかっただなんてちっとも思っていなさそうな顔で、吐き捨てるように那智は言った。どことなく機嫌の悪そうなオーラに、背筋が凍りそうになる。

 ……って、何でだ。こいつは僕より年下じゃないか。それなのに、何をびくびくする必要があるというんだ。

「……ところで、市橋さん」

 じろり、と睨まれた僕は再び身を竦めてしまう。今日の彼が纏う空気はいつもよりずっと張りつめていて、年下だとかそういうことなど全く関係なく、ただただ本能的な恐怖を覚えた。

「な、んですか」

 あぁ、どうしようもなく口の中が渇く。

 せめて虚勢でも張ればよかったのだが、残念ながら今の僕にはそんな器用なことなどできそうになかった。

「もう一回聞くよ」

 もう一度ピクリ、と右眉を上げ、那智は言う。

「どうして、俺の連絡を無視するの?」

 答えを提示しなければ許さない、とばかりに紡がれる言葉。それはひどく静かだったけれど、やっぱりどこか芝居かかっているように見えたから、本心――どんな類のものかは、知らない――を隠そうとしているのだということはすぐに分かった。

 彼の真っ直ぐな視線から逃れるように、一度視界を閉じる。深呼吸し、再び瞼を開いた時には、幾分か冷静になれたような気がした。

 キリキリと痛む胸に気付かないふりをしながら、僕はきっぱりと答える。

「迷惑だったから、と言ったら?」

 那智は表情を変えなかった。けれどその右眉は落ち着きなくピクピクと揺れていたから、きっと動揺しているのだろう。

 その事実に息苦しさを感じながらも、僕は続ける。

「僕がお前のマネージャーを外れたのは、もう三年も前だ。いくらフィールドが同じだと言っても、もう僕たちの関係はあの頃みたいに親密なものじゃない。それなのにいきなり電話してきたかと思えば、僕の家に無理やり押しかけてきて、おまけにあんなことまでして……しかも僕が拒まなかったのをいいことに、あの後から何回もしつこく連絡してきてさ」

「市橋さ、」

「どういうつもり? そういうの、はっきり言って迷惑だよ。神崎苑華……お前の恋人にだって、悪いことだと思わないの?」

「あのニュース、見たんだ」

 那智が哀しそうに目を伏せる。どうして、今更そんな顔するんだ。僕のことなんて、所詮どうとも思っていないくせに。

「見たよ」

 声の調子が、自然と荒くなる。

「あの後事務所に、たくさん電話掛かってきた。処理するのにどんだけ時間かかったと思ってんの。ホント馬鹿じゃない、お前。僕が一体、どういう気持ちで……」

 そこまで言って、ハッとする。

 自分は今、勢いに任せて一体何を言おうとしたというのだろう。全く、馬鹿はどっちだって話だ。

 何でもない、と目を逸らそうとしたところで、那智の手が僕の顎を掴んだ。逃げようとする目を、視線だけで追いかけられる。心拍数が、一気に上がったような気がした。

「市橋さん」

 耳元に口を寄せられ、くらくらするような低い声――これもきっと、演技用に仕込まれたものだろう――で囁かれる。

「絶対、逃がさないから」

 そのまま耳元を離れた唇は、かすめるように僕の唇を奪って行く。

 掴んでいた僕の顎と、先ほどから掴んだままだった僕の手首をパッと解放したかと思うと、那智は自分の背後にあるドアの鍵を外した。

 解放された僕は、そのままスマートな所作で男子トイレを出て行く那智の後姿を、ただ茫然と見送ることしかできなかった。


    ◆◆◆


 十分ほどぼうっとした後、僕は洗面所で顔を洗い、男子トイレを出た。残してきた石動と陽菜子のことを思い出し、とりあえず喫煙室の方へ向かって歩いていく。

 喫煙室まであと五十メートルほどというところで、向こうからパタパタと走ってくる誰かを見つける。すれ違い様に顔を見ると、涙で顔をぐちゃぐちゃにした陽菜子だった。

 慌てて足を進め、喫煙室のドアを開ける。中にいた石動は、ひどく情けない顔をしていた。

 陽菜子が出て行ってからちょうど新しいのを吸い始めたところらしく、右手には長い煙草が挟まれていた。ほんのり赤い先から流れる紫煙がひとすじ、不安定に空中を揺らめいている。

「少し時間をください、って」

 隣に腰かけると、石動が弱々しい声で言う。

「……ホントに時間が必要なのは、わたしの方、なのに」

 僕は黙ったままポンポン、と石動の頭を軽く叩いた。向けられる曖昧な笑みに、自嘲を込めた笑みを返す。

 ――時間が解決してくれるというのなら、とっくにそうしている。なのに、どうしてこうもうまくいかないんだろう。

 心の中でだけに留めた呟きは、誰にも――隣にいる石動にさえも、届くことのないままに霧散していった。

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