6.僕らの転機
翌日、当然のことながら僕は猛烈な後悔に苛まれていた。
少し動くたびにずくりとした下腹部の特徴的な痛みに顔をしかめ、そのたびに昨夜のことが脳裏をちらついて、ものすごく死にたい気分になる。
「僕は、馬鹿なのか……!?」
「おはよ、市橋。……どうした?」
後ろからひょこりと姿を現した沢城を、じとりと睨む。「え、俺何かした?」と思いっきり焦る沢城に、表情は変えぬまま内心だけでスマンと謝った。……こればっかりは、完全に八つ当たりだ。全面的に僕が悪い。
――何故、身体を許したのか。
抵抗しようと思えば、どんな手を使ってでもできたはずなのに……それをしなかったあの時の自分が、わからない。酒が入っていたわけでも、媚薬めいたものを飲まされたわけでもないはずなのに。
っていうか……それより、そもそもどうして那智は僕を抱いたんだ? 彼ほどの立場、そしてルックスならば、そういった存在など掃いて捨てるほど見つかるはずなのに。
それなのにどうして今更、とうの昔に疎遠になった存在の――しかも同性である僕にわざわざ歩み寄り、押し倒した挙げ句抱くなどという暴挙に出たのだろうか?
『愛してる』
僕の上に重なってきた彼の、薄い唇が幾度も紡いだ言葉。それは有り触れたチープなものだったけれど、僕の心を無様に揺り動かすには十分すぎるほどの効果を持っていた(どうしてそうなったのかは、僕自身にもよくわからないのだけれど)。
それは、本心? それとも、お得意の演技?
もし後者だとしたら、一体お前は何のために、そんな虚言を吐きだしていたの? まるで何かに耐えるみたいな、苦しそうな顔をしながら……。
ねぇ、お前は一体あの時、何を考えていたの?
「あー……わかんねぇ。本気でわかんねぇよ……」
「ホントにどうしたんだよ市橋……もしかして、調子悪いのか? それなら上に言っとくし、今日はもう帰ったらどうだ。お前いっつも頑張ってるし、一日ぐらい休んだって別に罰当たんねぇって」
「いや、大丈夫」
そもそもこんなことでいちいち悩んでいるとか、当人にはおろか周りにだって絶対知られたくない。個人的な感情を仕事に持ち込むなんて、社会人として失格だろう、どう考えても。
むしろこういう時こそ、がむしゃらに仕事しなくちゃいけないんだ。
そうだ、マネージャーには片時も休んでいる暇などないんだ。そりゃあ専属マネージャーみたいにあちこち移動することもなければ、プロデューサーに直接頭を下げたりすることもないけれど……忙しさで言ったら、僕たち営業マネージャーだって大して変わらないんだから。
「うし、仕事仕事!」
下腹部の痛みを密かに堪えながら、両肩を大袈裟なほどブンブンと振り回し、事務所内にある自らのオフィスへと直行する。後ろから「まぁ、大丈夫なら良いけど……」と不満そうに呟く沢城の声が聞こえたけれど、もちろんいつも通り無視をした。
その日僕は、うわべだけでもいつも通りに振る舞うことを心がけながら、必死の思いでどうにか仕事を終えた。
下腹部は変わらず痛み続けたし、混乱も未だずっと続いていたけれど、誰にも悟られなかった……はずだ。案外勘のいい沢城辺りには、感づかれていそうだが。
けど気がかりな視線を向けてくるだけで沢城はそれ以上何も言ってこなかったし、その心配も杞憂にすぎなかったのかもしれない。あいつは何か異変を感じた時は、必ず声を掛けてくるから。
そのあたりのことは、特に気にしないことにした。
それから後も僕は、休日を挟みつついつものように仕事を続けた。
その間一度も那智に会うことはなかったし、連絡すらなかったけれど、毎日何らかの形でメディア出演する那智の姿を見るたびに、心が妙に疼くのを感じ、動揺せずにはいられなかった。
そして……。
あの日――那智が僕の家へ押しかけてきた日から、ちょうど一週間ほど経った頃に、それは起こった。僕の心を本格的に狂わせるきっかけとなった、ある一つの出来事が。
その日もいつも通り午前中の仕事を終え、昼休みを取った僕は、いつものように昼食を摂るため休憩室へと足を踏み入れる。
同じフロアで働く沢城や先輩たちと休憩時間が被らなかったので、今日は休憩明けまで一人きりだ。もともとそんなに社員数が多くないので、このようなことはしばしばあった。
シンとした部屋というのも居心地が悪いので――周りが静かだと、つい余計なことにまで考えが及んでしまうので――何気なくテレビをつけた僕は、一瞬で自分が起こしたその行動を後悔することになった。
備え付けのリモコンを手に、しばし固まる。僕の視線は、テレビ画面――おそらく、情報番組か何かだろう――に突如躍り出たカラフルな文字に釘付けだった。
『小清水那智&神崎苑華に熱愛疑惑!? デートと思しき現場をマスコミが目撃・激写!!』
「え……」
一瞬で、顔からスッと熱が引いていくのが分かった。同時に口の中もカラカラに渇いていく。
その後パッと切り替わった画面に映ったのは、仲睦まじそうに寄り添いあう二人の男女の後姿。
横を向き楽しそうな笑みを浮かべる彼女は、ここではない別の事務所に所属する人気女優・神崎苑華だ。彼女はここ一、二年でぐんぐんと知名度を上げてきた演技派女優の一人で、この前まで放送されていた高視聴率ドラマに那智の相手役として出演していた。評判だって那智と同じく上々で、今年も主演ドラマが一本決まっているらしいともっぱらの噂だ。
そしてその隣に並んでいる、背の高い男の広い背中……顔は見えなかったけれど、確かに見覚えがあった。間違いなく、小清水那智だ。
顔が見えなくたって、本人だとすぐに分かる。そのくらい、僕はあいつのことを熟知しているのだから。
『いやぁ、今を時めくビッグカップル誕生といったところでしょうか!』
驚きと興奮が混ざった、アナウンサーの高く上ずった声。
『テレビの前の皆さんも既にピンときているのではないかと思いますが、小清水さんと神崎さんといえば、今年一月より放送されていた高視聴率ドラマで共演していた二人ですね。撮影現場でも――……』
芸能リポーターだという人が、二人の関係性などについてあれこれ解説をしているのも、まともに耳に入ってこない。
……酸素は、足りているはずだ。
なのにどうして、まるで酸欠の時みたいに頭がくらくらしているんだろう。どうして、こんなにも息がしづらいんだろう。
「は、ぁ」
金魚のようにパクパクと開閉させていた口から、不意に喘ぐような息が漏れる。自分の声が昨日那智の下にいた時の甘ったるいそれと重なって、顔が一気に熱くなった。
そして同時に、耳元で彼の声がよみがえる。
『愛してる』
確かにあの時、あいつは言った。
誰に? 僕に。
それなのに、テレビの向こうであいつは、別の誰かと――……。
そう考えると、ふつふつと怒りに似た感情が湧き上がってくる。
冷静に考えれば、僕にそんなことを思う権利などないのだ。何故なら僕は那智の恋人というわけじゃないし、第一男同士なのだから。
確かにあいつは僕を抱いたけど、それだって単純に一種の気の迷いとか、そういうのだったかもしれないし……何度も繰り返されたあの言葉だって、本心じゃない可能性も十分にある。
だからこれは、単なる理不尽な嫉妬なのであって……。
と、そこまで考えたところで、僕は自分が考えていることに対して妙な引っ掛かりを覚えた。
……嫉妬?
長年同性どころか異性にすらも抱いていなかったはずのモヤモヤとした感情に、いつの間にか自らで名をつけてしまっていたことに気付いて、僕は戸惑っていた。
だって、まさかこんなことがあるなんて。那智にならまだしも、その相手である神崎苑華に対して、そんな面倒くさい感情を抱いているだなんて。
これではまるで、僕が那智のことを――……。
「……っ!?」
声が出たわけでもないのに、そこから決して明らかにしてはいけない何かが溢れ出しそうな気がして、思わず両手で口を塞ぐ。今、自分は何を考えていたというのだろう。
とっくの昔に自分から手放したはずの存在を――しかも同性であり、今では決して手の届かない位置にいるあいつのことを、今更、愛している、だなんて。
こうなって初めて、ずっと不可解だった自分の気持ちにちゃんとした名前がついてしまうことになるなんて。
全てを否定してしまいたい衝動に駆られる。違う、そうじゃない。僕はそんなことを思ってなどいない。那智のことを、そんな目で見たことなんて、一度もない。
でも……。
「そう考えれば、全部説明がつくんだよなぁ」
口を塞いでいた両手の隙間から、溜息交じりの呟きが無意識に零れ出る。この場所に自分以外誰もいなくて、本当に良かったと心から思った。
三年前、震える唇が触れた時、嫌悪ではない感情が心を支配したのも。どうしようもなく切なくてたまらなくて、泣いてしまったのも。
その時のことを、三年間ずっと忘れられずにいたのも。無駄に那智を意識してしまっていたのも。
久しぶりに顔を合わせた時や、電話がかかってきた時、いやに落ち着かない気持ちだったのも。
那智に抱かれた時、抵抗らしい抵抗をしなかったのも。
今こうして彼の熱愛報道を目にし、どうしようもなく嫉妬してしまっているのも――……。
全部、僕が小清水那智を愛しているから。
最初は可愛い弟、もしくは息子くらいにしか思っていなかったはずの彼に対する気持ちが、いつしか確かな恋情に――半ば依存めいたものに、変わっていたから。
僕も馬鹿だ、と思う。何も、こんな時に気が付かなくてもよかったのに。決して手に入ることなどないと分かってしまった、その時に……。
今更遅いことくらい、分かっているのに。
いくら那智が僕を抱いたといっても、いくら『愛してる』と囁いたといっても、那智の気持ちは分からない。僕を本当に『愛して』くれているのか……それとも僕に言ったことは全部嘘で、テレビの向こうで取り沙汰されていることこそが真実なのか。
だとしたら、どういうつもりで彼は僕を抱いたのか。
いつもそうしているように、ガラス越しに彼の姿を見ているような気持ち。ドラマでも見ているみたいな、そういう。
テレビ画面に映る那智――ちょうど、過去のドラマに出演していた時の映像が流れているようだ――を、僕は食べるつもりだったはずの昼食に手を付けることもないまま、ぼうっと見つめていた。
昼休み終了の時間になっても出てこない僕を心配したらしい沢城が、この休憩室のドアを開くまでの間、ずっと。




