5.僕らの交錯
――さて、今のこの状況は一体何なのだろうか。
背にはフカフカとしたベッドの感触。軟弱な両手首を掴んでいるのは、白くも黒くもない、ほどよく筋肉のついた綺麗な手。投げ出されたひょろ長い両足の間には、僕のものではない紺色のスラックスに包まれた長い左足が、膝を立てた状態でねじ込まれている。
そして現在脳内がフリーズ寸前である僕の、今にも混乱でぐるぐると回りそうな視界いっぱいに広がっているのは――……小清水那智の、テレビで見るよりずっと整った綺麗な顔。
どうして、こんなことになっているのか……それを説明するためには、話を今から数時間ほど前にまで戻さなければならない。
◆◆◆
那智と偶然にも三年ぶりに顔を合わせる事態となった日から、数日後。
またいつ那智がここに来るのか、またいつ顔を合わせるような事態に陥るか分からないまま、僕は戦々恐々としながら――まぁ、これまでも三年間ずっと同じ気持ちではあったのだけれど、あれからは今まで以上に――事務所で仕事をしながら過ごしていた。
那智のことで悩んではいたものの、営業マネージャーとしての仕事の忙しさは、当然そのような個人的な都合など顧みてくれるはずもない。集中力を途切れさせることで仕事を失敗してしまうことなど、何があっても決してありえてはいけないことだ。
幸いにも僕の場合は、那智のせいで集中力を欠いてしまうようなことなどなかった。むしろそれらのことを考えないようにと努めることで、いつも以上に仕事に集中することができていたくらいだ。
……が、ちょうどそんな時だった。僕のスマートフォンが、何の前触れもなく着信音を奏でたのは。
同僚や先輩たちに一言断りを入れ、とりあえず喫煙室へ足を踏み入れる。僕は煙草を吸わないので普段そこを使用することはないのだが、休憩室はちょうど別の社員が使っている所だったので、電話に出るためには少々不向きだったのだ。
相手を確かめることもせぬまま、深く考えずに画面をタップし、ためらいなく耳へと当てる。
流れてきた声に、一瞬脳の全機能が止まった。ような気がした。
『市橋さん?』
「な……」
なん、で……。
どんどん早まっていく鼓動と、ぐるぐる回る頭の中。そんなことに気を取られていると、受話器の向こうからクツクツ、と喉の奥で笑うような声がした。あぁ、いつの間にお前は、そんな風に笑えるようになったんだ。
『まさかとは思っていたけれど、やっぱり番号変わってなかった』
「……っ」
そうだ。携帯は確かに変えたけれど、面倒だったこともあって、電話番号を変更することだけはしなかったんだ。今更ながら、過去の自分の選択を呪いたくなる。
からからに渇いた喉から、絞りだすように声を出す。
「何の、御用……ですか」
『ずいぶん他人行儀だね。こないだ会った時もそうだったけれど』
できるだけ顔に出さないように気を付けてたけど、あの時俺、すごく傷ついたんだからね?
茶化すようなセリフの後、再びクツクツ、と響く笑い声。いかんせん顔が見えないから、それが演技なのか本心なのか、いつもより判断しづらいのが悔しい。
耳をくすぐる低音が、この胸を騒がせることにだけは、まだ気付いちゃいけない……今更そんなこと言ったって遅いような気もするが、それはすなわち『負け』を意味するわけで。
いや、何が負けなのかは知らないけれど。
『……市橋さん、聞いてる?』
那智の心配そうな声――さすが演技を生業とする人間なだけあって、それはどこか大袈裟なほどにたっぷりと感情が込められていた――に、考え事をしていた僕はハッと我に返る。
「あ、あぁ……はい」
うっかり昔と同じノリで答えてしまわないように気を配りながら、慎重に応答する。いまや自分は彼の専属マネージャーから外れている身なのだから、昔のように接することなど叶わないのだ――そう、自分に言い聞かせて。
また、那智は笑う。昔よりもずっと大人っぽくなった、その声で。
『あのさ、市橋さん』
「は、い」
『……今も、あのアパートに住んでるよね?』
半ば断定的に問われ、唇を噛む。
……あぁ、そうだ。そうだよな。僕があの頃と変わらない那智をよく分かっているように、那智もまた、あの頃と変わらない僕――それはつまり、今の僕ともいえる――をよく分かっているんだ。
『答えてよ』
「答えなくたって、分かっているくせに」
そうだね、と那智はどこか機嫌よさそうに言う。自分がほんの少し素になっていたことに、その嬉しそうな声色で気づいてしまった。
そして次の一言で、また僕は固まることになるのだ。
『今夜行くから、待ってて』
――え?
今、こいつはなんて言った?
「行くって――」
『そのままの意味。……じゃあ』
「ちょっと待っ」
ブッ。ツー、ツー、ツー……。
呆然とする僕の耳に届くのは、通話の終了を示す無情な音。
スマートフォンを手に、室内中をフラフラと彷徨い歩いた僕は、その場に設えられた簡易椅子に座り込み、がっくりとうなだれる。心臓は、未だ落ち着くことなくバクバクと音を立てていた。
彼が何故、突然あんなことを言ったのか。今更だが、何とか避けるための口実はないものか。
あれこれ考えてはみるけれど、それは全部無駄なことだと頭で分かっている。
結局那智に言われた通り、僕は今夜素直に、あの部屋で彼の到着を待つのだろう。
◆◆◆
結局あの後、夜九時ごろに那智はやってきた。
そうして挨拶もそこそこに、心中穏やかでない僕がぎこちなく室内へ迎え入れるや否や、寝室へずかずかと足を踏み入れてきて――……結果、今のこの状況に至る。
こちらを穴が空くのではないかと思うくらいにじっと見つめてくるのは、思わず身をすくませてしまいそうになるほど真剣な瞳。
それと対照的に、一度直に触れたことのある薄い唇からは、いつも聞くものよりずっと頼りない調子の声が漏れる。
「市橋さん」
堪えきれなかった感情が思わず漏れてしまったかのように、幾度も弱々しく紡がれる名前。そのたびに僕は、キュウッと胸が締め付けられるような、どうしようもない気持ちになる。
多少の対格差はあるといっても、僕たちは一応男同士。本気になりさえすれば、形勢逆転することくらい容易いことのはずなのに。
なのに、何でだろう。
半ば睨むように、それでいてどこか縋るように臆病な光を宿した瞳に見つめられるだけで、抵抗する気を完全に無くしてしまいそうになるのは。
「市橋さん」
その声で名を呼ばれるだけで、全身の力が抜けてしまうのは。
「こ、しみず、さ……んっ」
わざと他人行儀に彼の名を紡ごうとした唇は、唐突に振ってきた彼の唇によって塞がれる。それは三年前、おずおずと重ねられたものとは比べものにならないくらいに熱く、まるで噛みつくような口付けだった。
「ふっ……ん、」
反論や叱責の言葉は外に出されもせぬまま、重ねられた那智の唇の奥へと吸い込まれていく。演技用に教わったやり方なのだろう、同じ男としてうらやましくなってしまうくらいに、それはひどくレベルの高いものだった。
酸素を求めて開いた口に、舌がぬるりと滑り込んでくる。那智にリードされながら、互いの舌を絡ませあった。
ぐずぐずにとろけていく脳髄で、何も考えられなくなってしまいそうになる。自らの姿を、立場を、全て見失いそうになる。
やがてその拘束から解放された頃には、すっかり息が上がっていた。酸欠で、少し頭がくらくらする。
潤んでいるのであろう瞳で目の前の男をキッと睨めば、那智は悲しそうに笑った。息も絶え絶えに、何とか言葉を紡ぎだす。
「なん、で……」
何で、今日ここに来たの。
何で、同性であるはずの僕にこんなことしてるの。
たくさんの『何で』が、混乱する僕の頭の中でぐるぐると、走馬灯のように巡っていく。
那智は曖昧に唇を歪めた。僕の質問に答えようとはせず、ぴくり、ぴくりと右眉を動かしながら、逆に問い返してくる。
「何で?」
何で市橋さんは、俺のことを避けるの?
ぐ、と言葉に詰まる。
言えるわけないじゃないか。三年前のあの日から、僕だけが勝手に気まずい思いしちゃってて、それで一方的に避けているだなんて。
僕が一方的に、お前を意識してるからだなんて。
「……」
「俺はね、市橋さん」
再び顔が近づいてきて、思わず固く目を閉じる。彼の唇は、今度は僕の唇ではなく首のところに当たった。柔らかな感触が鎖骨に触れて、ちょっとくすぐったい。
と思ったら、いきなり耳にふぅっ、と生温い息を吹きかけられ、僕の全身は過剰なまでにびくり、と反応した。
そのまま耳元で、低く続きを囁かれる。
「ただ、あなたにもう一回会いたかったんだ」
「ひあっ」
首筋にがぶりと噛みつかれ、変な声が上がってしまった。顔を上げた那智が、獰猛に笑う。三年前なら絶対に見せなかったはずの……なんというか、雄の、表情。
「俺はもう、三年前までの弱っちぃ俺じゃない。そのこと、今から市橋さんに証明してあげる」
再び重ねられた唇に、今度こそ僕は自らの意識の全てが飲み込まれたと、そう悟らずにはいられなかったのだった。




