3.僕らの過去:後篇
那智が俳優としてデビューしてからおよそ七年が経った、ある日のこと。
那智の仕事が休みだったため、専属マネージャーの仕事はなかったけれど、その日僕は事務所にいた。何でも社長が僕と個別に話をしたいということで、昼間から呼び出されていたのだ。
「――失礼します」
小さいながらも立派な造りの部屋――社長室のドアを叩き、了承の声が聞こえた後、恭しく礼をしながら中へ足を踏み入れる。
顔を上げれば、自然と椅子に座っていた社長と目が合って……そのとき僕の中に、半ば直感的な予感が生まれた。これから何か良からぬことを言われるような、自分の運命がこれで変わるのではないかというような、そんな漠然とした予感ではあったけれど。
僕の表情が相当強張っていたのだろう。社長は眉をハの字に下げ、とても悲しそうな笑みを浮かべる。
そして、僕の頭を、心を、一瞬で凍りつかせるような衝撃の一言を告げたのだった。
◆◆◆
「あ、お帰り市橋さん。今日の晩御飯どうする?」
重い気分でアパートのドアを開けるや否や、純真無垢な笑みを浮かべた那智がパタパタと駆け寄ってきた。もしも尻尾が生えているなら、きっとその動きに合わせてぴょこぴょこと動いていることだろう……この頃になるとそのくらい、彼は僕に懐いてくれるようになっていた。
そんな那智に、今日僕が持って帰ってきたニュースを知らせるのはあまりに残酷なことのように思えてしまって、口にするのがためらわれる。
でも……。
『お前の口から、打ち明けてやってくれ』
自分の口からはあまりに言いづらいことだからと、社長は言った。きっと彼の性質を僕ほど知らないから、扱いに困っているのだろう。
このようなことを、どうして自ら口にしなければならないのだろう。そんなの告げる張本人である僕にとってはもちろんのこと、告げられる側である那智だって辛いじゃないか。
……それでも、告げなければならないのだ。それが、事務所の方針だというならば。
それが、これからの那智のためになるというのなら。
「……あのさ、那智」
「何?」
ちょいちょい、と手招きすれば、那智は疑う素振りもなく近づいてくる。
出会ったばかりの頃は僕とあまり変わらなかったはずの背丈も、今となってはあっさり僕を追い越してしまっていた。もうすぐ百八十の大台に乗るんだとか、前の健康診断のときに言っていたっけ。年下のくせに生意気だ、身長を分けろ、なんて軽口を叩いていた頃が、なんだか不意に懐かしくなった。
気を抜くと、涙が出そうになってしまう。この末路を知っているのは今のところ僕だけだから、ここで泣いてしまったら那智に不審がられてしまうよな。せめて冷静に、言わなくちゃ。
「夕飯の前にさ。言わなきゃ、いけないことがあるんだ」
ようやくそれだけ口にすれば、那智は不思議そうに首をかしげる。姿も仕草もあの頃より格段に大人っぽくなったけれど、そういった仕草はまだまだ子供だなぁなんて思ってしまった。
ふぅ、と一息ついた後、僕は意を決して、その一言――僕たち二人の運命をガラリと変える、いわゆる一種のターニングポイントにもなりえるような一言を告げた。
「今月付けで、僕はお前の専属マネージャーを降りることになった。……もう七年、になるかな。長年寄り添ったお前とも、もうすぐお別れだ」
――那智の笑顔が、いっそ芸術的なまでにぴたりと固まった。
「……え?」
震える那智の薄い唇から、声にならない声が漏れる。同時に整った右眉が、ぴくり、ぴくりと小刻みに揺れた。
「なん、で……そんな、どういうこと。市橋、さん……いきなり、何で、ねぇ」
少しずつ、性急にぽろぽろと零れ始める那智のたどたどしい言葉は、相当取り乱しているらしく正しい順序をなしていない。あれほど懐いてくれていたのだ、こうなっても仕方ないだろうとはある程度覚悟していたけれど、いざそれを直接目にするとかなり心苦しいものがあった。
ごめんな、那智……。
心の中で謝罪の言葉を告げながら、僕は余計な感情を表に出さないように努めながら、義務的に続ける。
「上からの指示だ。お前も最近、少しずつではあるけれど売れてきた。前に言っただろう、お前には才能があるって。それをさらに開花させれば、お前はすぐにうちの看板俳優として君臨できる。将来的にはきっと、芸能界の中でも良い位置に上り詰められるはずだ。だから……そのために、現在お前の周りに出来ている組織を一新することにした」
「え、だって……じゃあ市橋さんは」
「安心しろ。僕はお前の専属マネージャーから外れるだけで、マネージャー業自体をやめるわけじゃない。事務所には残るさ。お前と、今までみたいに一緒にいることはできないって、ただそれだけ。これから僕たちは、別々に仕事をするんだ」
「……やだ、」
那智はふるふると首を横に振る。その顔は病的なほどに、少し心配になってしまうほどに青ざめていたけれど、もともとの整った顔つきや華奢な身体つきと相まって……なんというか、とても幻想的で美しく見えた。
専属マネージャーとして、彼の素晴らしい演技力だけはしっかりこの目で見、その上で認めていたはずだった。
でも……そんな風に思ったのはその時が初めてだった。
俳優としてではない、素の小清水那智という人間のことを、こんなにも綺麗だと思うなんて。
しかも、こんな最悪のタイミングで気づいてしまうなんて。
僕はもう、これ以上お前の傍にいられないのに。
「だから、那智」
やだ、嫌だ、とうわ言のように繰り返しながら幾度も首を横に振る那智に、心をぐりぐりと抉られていくような痛みを覚えながら、そんな自らの内心を悟られぬよう淡々と、僕は言葉を紡ぐ。
「……あの日言ってくれたように、立派な俳優になれよ」
泣きそうになるのを堪え、な? と首をかしげながら笑みを作ってやろうとした、ちょうどその時。
――ドンッ。
「痛っ……」
予期していなかった背中の痛みに顔をしかめれば、目の前には辛そうに眉根を寄せた那智の顔。左右には顔を挟むようにして壁に突かれた彼の両手があり、しかも後ろには壁。もはや僕に、逃げ場はない。
「市橋さん……」
切なそうな、縋るような声。いつものような強気な態度でも、演技をしている時の堂々とした態度でもない、おそらくこうなった今の僕だけしか知らないであろう、彼の弱い姿。
思わず抱き締めたくなって、だらりと下げられた手を伸ばしそうになるのを、すんでのところで堪える。だってそれだけは、絶対にできないことだから――これから二度と、やってはいけないことだから。
僕が今、やらなくちゃいけないことは、彼を自由にしてあげること。今までいっそ甲斐甲斐しいほどまでに世話してきた彼の手を、今ここで離してあげることだけ。
それは、何よりも大切な彼の未来を守るために必要なこと。絶対に、避けては通れない道。
それなのにどうして僕は、今更ためらっているのだろう? 駄々をこねる那智を諭し、正しい道へと導いてやらなければならない立場のはずなのに……どうして僕は今、こんなにも心を揺らしているのだろう?
……あぁ、そうだ。これはきっと、一人娘を嫁に出す親の気持ちと一緒なんだ。辛いけど、これを乗り越えたらすぐに慣れるって。うん。
那智だって今はこんなに嫌がっているけど、いざ手を離してしまえばすぐに飛び立っていってしまうはず。だって子供が親元から離れるのって、誰しもこういう感じでしょ?
うん、だから大丈夫。僕は予定通りちゃんと、那智を手放せる。
「那智、お願いだから」
離して、と意を決して言葉を続けようとしたけれど、それ以上言うことはできなかった。僕が口を開いたと同時に、那智の顔が近づいてきて……僕の唇に、彼の震えるそれが触れたから。
初めて合わせられた彼の唇は、その薄さとは対照的にすごく柔らかくて、温かくて……それから、ちょっと濡れていた。
那智は目を薄く開いていた。僕は突然のことに目を閉じる暇なんてなかったから、当然僕たちは唇と共に、その視線同士をも絡め合わせることになった。
せめて視線だけでも逸らそうと試みたけれど、那智の鋭くて綺麗な黒目はそれを許してくれなかった。ずっと俺だけを見ていて、とでも言いたげに、それはいっそ真っ直ぐすぎるくらいに僕の目を射り抜いてくる。
強い支配力に吸い込まれそうになるのを止めるために、僕は最後の抵抗として、自らの瞼を静かに下ろした。
一体どれくらいの時間、そうしていただろう。
やがて触れ合っていた部分が融け、今感じているのが一体どちらの体温かわからなくなってきて……そんな頃にようやく、彼からの甘く優しい拘束は解けた。
下ろしていた瞼を再び上げ、外気に触れてひんやりとした唇を両手で抑える。那智はいつの間にか僕から離れていて、少し広がった距離の先に、その背中だけが見えた。
しばしの間、おそらく僕が生きてきた中で一番であろうほどの、ひどく重たい沈黙が降りる。
やがて、背中を向けたままで那智が口を開いた。
「……明日にでも、出て行けるようにするよ」
やっと、納得してくれたのだろうか。ホッとしたような気持ちと寂しい気持ち、それからほんの少しの切なさを胸にひた隠しながら、僕はぎこちなく笑みを作ってみる。
「すぐじゃなくても良いよ。今月中はまだ、僕はお前のマネージャーだし。何なら新しい部屋が決まるまでは……」
「ううん。実家があるから」
間髪入れずに、ほんの少し強めの調子で言葉が返ってくる。
「一刻も早く、市橋さんと離れたいし」
彼なりの、覚悟の言葉だったのだろう。きっと、他意はない。
それなのに僕の心は、きしりと嫌な音を立てた。
どうして、僕が傷ついているんだろう。むしろ僕の方が、彼を傷つけたっていうのに。
両手で覆った中の唇が、じんわりと熱をもつ。
「じゃあ、準備してくるね」
感情のほとんどこもらない低い声で告げると、那智は自室へ引っ込んでいってしまった。後に残るのは向き質な家具が置かれたリビングの姿と、身体の中にひしめく不思議な熱を持て余す僕。
壁にもたれたまま、ずりずり、と音を立てて座り込む。自分の腕で自分を抱き締め、僕は声も上げず泣いた。
その翌日、宣言通り那智は僕の部屋を出て行った。
月が変わるまでの数日は、引き継ぎやら何やらで忙しかった。多忙を理由に那智の現場へ着いていくことをしなかったから、その間那智と顔を合わせることもなかった。
事務所にいる時は考え事をしている暇なんてなかったからよかったけれど、仕事が終わって一人きりのアパートに戻るたびに、どうしようもない虚無感が僕の心を支配して……なんだかもう、どうしたらいいかわからなかった。
心配してくれたらしい仕事仲間には何度かキャバクラや風俗、合コンなどに誘われたけれど、全部断った。そんなもので満たされるほど、僕の中に空いた穴は単純なものじゃなかったから。
そうしている間に無情にも時間は過ぎ、約束通り那智のマネージャーは変わった。そうして僕は那智の専属マネージャーから、事務所全体の経営を手伝う営業マネージャーとして勤めることとなったのだ。
――それから、約三年。那智はいまや売れっ子俳優となり、僕は事務所の営業マネージャーとして毎日忙しく働いている。
それでも僕と那智の間にある(と、少なくとも僕は感じている)曖昧な溝、そして僕の中のどうしようもない感情と、小さいけれど確かに燻る身体の熱は、ほとんど顔を合わせることのなくなった今でも続いている。




