10.僕らの決断:後篇
「昨日はごめんなさい。葉月さんがせっかくお話してくれたのに……最後までちゃんと聞かないで、言い逃げするみたいな形で、出てっちゃって。葉月さん、困っちゃった、よね」
ソファに腰かけ、膝の上でこぶしを握りながら、陽菜子が申し訳なさそうに言う。その上にそっと手を重ねた石動は、ううん、と首を振った。
「わたしこそ、隠しててごめん。いつかは話さなきゃいけないことだって、頭ではちゃんとわかってたけど……この期に及んでも、やっぱりどうしても打ち明けられなくて。陽菜子のこと、傷つけた」
うつむき肩を震わせた陽菜子を、石動はどこか耐えるような表情で見つめる。そんな二人を、僕と沢城は傍らに立ったままただ黙って見つめていた。
「葉月さん、あたしね」
うつむいたまま、陽菜子が一生懸命何かを伝えようとするように言う。その口元に耳を寄せ、石動は優しく「ん?」と続きを促した。いつものほんわかとした雰囲気にホッとしたのか、陽菜子はフッと肩から力を抜いた。
「立派な女優になることは、小さな頃からの夢で……憧れで。一つ一つ仕事をこなしていくたびに、その舞台に一歩ずつ近づけていることを感じて、ワクワクしてた。辛いことだって、もちろんたくさんあったけど……それは女優としてのステップアップになるって信じて、あたし、これまでずっと頑張ってきた」
「うん、そうだね」
知っているよ、とばかりに石動は相槌を打つ。
彼女が女優という仕事に真剣に向き合ってきたことは、もちろん傍で見てきた石動が一番知っている。だからこそ、こうやって手放す日が来ることも、わかっていたはずだった。
「葉月さんには、すごく感謝してる。あたしがくじけそうになった時には、いつも傍で支えてくれた。あたしの仕事の成功を、誰よりも喜んでくれてた。そう、思っていたんだけどね……」
顔を上げた陽菜子が、不意に遠くを見るような表情になる。その横顔を見つめる石動の瞳が、揺らいだ。
「いつからかなぁ、気付いちゃったことがあって。あたしが仕事にやりがいを感じて、嬉しいって感情のままに報告するのを、聞いてくれる葉月さんの目が……悲しそうに揺らいでるの。ほら、今みたいに」
そう語る陽菜子の目は、石動をはっきりとは見ていない。けれど、気付いているのだ。その時の石動と今の石動が、同じ目をしていることに。
フッ、と石動は諦めたように笑った。
「気づいていたんだ」
「うん」
そのままの状態で、陽菜子はうなずく。
「それで、小清水さんに相談したら……」
小清水、という名前に、知らず息を呑む。
僕の動揺に気付いたのか、沢城がチラリとこちらを見た。何でもないとでも言うように曖昧に笑んでみせれば、沢城は首を傾げながらも視線を戻す。彼に申し訳なくて、小さく息を吐いた。
「別れが近いんじゃないか、って、小清水さんが言ったの。あたしたちみたいな新人俳優は、ある程度売れてくると、その時点で担当替えをされるらしいんだって。葉月さんは、それを知っていたんじゃないかなって」
実際、彼の言う通りだった。石動はいずれある担当替えのことを知っていて、陽菜子が売れていく兆しを感じるたびに――当然、嬉しさも感じていただろうけれど――別れの日が近いことを悟り、そのことを誰よりも憂えていた。
「小清水さんにもそういう経験があるみたいで、その話の時だけちょっと眉をひそめてた気がしたんだけど……まぁ、それはいっか」
きしり、と胸が嫌な音を立てる。
どうしてこうも、彼女は無意識に僕の心を抉るようなことを言うのだろうか。まぁ、これは僕の個人的感情にすぎないから、彼女を責めたところで仕方ないことくらい分かっているのだけれど。
顔に出さないよう必死で耐えていたからか、今度は沢城も気づかなかったらしかった。
「それで、昨日の朝。夜通しあったあたしの仕事が終わった時、ちょうど葉月さんの携帯に電話がかかってきて……葉月さん、すごく思いつめた表情して、そのままあたしを置いて事務所に戻っていっちゃったよね。これはもしかして、とか考えたら、すごく嫌な予感がして……いったん家に戻った後、オフだった小清水さんに一緒に来てもらって、事務所に乗り込んだの」
これが、昨日までの全容だよ。
そう言った陽菜子の目は、潤んでいた。
「葉月さんが、市橋さんと喫煙室でちょうど話してたのは……それをばっちり聞いちゃったのは、偶然だったんだけどね」
「陽菜子……」
ごめんね、と呟く弱々しい声。謝らないで、と陽菜子は首を振った。
石動の手の下にあった両手を外し、今度は逆に石動の手を包み込むようにしてそっと取る。
「あたし、あれから考えたんだ」
震える声は、よく聞くと涙声になっていた。泣きそうなのを堪えながら、陽菜子は懸命に話を続ける。
「デビューした時から十年も一緒にいた葉月さんと、離れるのはすっごく辛い。特に昨日は嫌だって気持ちばっかりが先行したのと、葉月さんが一度も打ち明けてくれなかったことがショックだったのとで、かなり動揺しちゃった」
「……」
「けど……一人で冷静に考えて、あたし、分かったの。このままじゃ、葉月さんを余計に悲しませるだけだって」
「そんなこと」
気にしなくていいのに、と紡ごうとした石動の言葉は、声にならない。垂れがちの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
そんな彼女を見ながら、陽菜子は柔らかく笑う。大丈夫だよ、と顔全体で表そうとしているかのように。
「さっきも言った通り、女優であることはずっと夢だった。願わくはもっと、もっと認められる女優になりたいよ。……そのために事務所が決めた担当替えというシステムがあるんだってことも、なんとなく理解したつもり」
それにね、と言いながら、陽菜子は石動の手を包み込んだ自らの手を、そっと胸に押し当てた。目を閉じた拍子に、溜まっていたのであろう涙が頬を伝う。
石動が、小さく目を見開いた。
「これは何も、永遠の別れじゃないんだって、思えたから。これまでよりもずっと忙しくなることは分かってるし、会える頻度も少なくなるだろうけど……それでも事務所を辞めるわけじゃないでしょ? いつでもってわけにはいかなくても……会える時は、絶対にあるんでしょ? 連絡先だって、ちゃんと知っているもんね」
「陽菜子……っ」
石動が泣きながら、陽菜子を呼ぶ。陽菜子は答えるように、彼女の手をぎゅっと握った。
「ねぇ、葉月さん。会えなくても、傍にいれなくても、それでもあたしのこと……応援、してくれる?」
「……っ、もちろんだよ」
握られていない方の手で涙を拭いながら、石動は笑った。
作ったような笑みではない。涙でぐちゃぐちゃではあったものの、見ているこちらまでもホッとさせるような、心からの笑み。
「わたしはデビューした時からずっと、陽菜子のファンだよ。これからも、それは変わらない。辛くなったら、いつでも連絡してくれていいよ。離れてても、絶対わたしは陽菜子を見守ってるから。だから……頑張って」
「ありがとう、葉月さん」
陽菜子も感極まったように涙を零す。けれどその表情だけはいつもの彼女らしく、まるで向日葵のように明るかった。
僕も隣に立っていた沢城と顔を見合わせ、互いに笑いあう。
ロビーを纏っていた雰囲気は、いつしか重々しいものから明るく柔らかなものへと戻っていた。
◆◆◆
『今日は、一緒に飲もうか』
そう言って事務所を出て行った陽菜子と石動は、涙ですっかりぐちゃぐちゃの顔になっていた。けれどどちらもすっきりしたような、見ていて気持ちのいい表情をしていたから、こちらも清々しい気持ちで二人を見送ることができた。
ロビーには、再び僕と沢城だけが残る。
ソファに腰を下ろしてから、しばし考えに沈んでいた僕に、沢城がおずおずと話しかけてくる。
「市橋……」
「何」
返事をした僕の声は、硬かったのかもしれない。僕の顔を覗きこんでくる沢城は、どこか難しい表情だった。
「石動と陽菜ちゃん、仲直りできてよかったな」
「……うん」
「本当にそう思ってる?」
「もちろん」
あの二人が分かり合えたことに対して、よかったとは思う。自分たちのようにならなくて……これからもうまく関係を築けていけそうで、ホッとしたというのは事実だ。
「なら、市橋」
ただ――……。
「お前はどうして……そんなに、絶望的な顔をしているんだ?」
どうやら、沢城には何もかもお見通しらしい。
僕が落ち込んでいるのはもちろんのこと、本当はその理由さえも――僕の苦悩に那智が関わっていることも、きっと口に出さないだけで全て分かっているんだ。
フッ、と自嘲を込めて、僕は笑った。
「なぁ、沢城」
「ん?」
沢城の声は、優しかった。その事実だけで、油断するとたちまち涙が零れ落ちそうになる。
すぅ、と小さく息を吸い、僕はもう一度口を開く。
「例えば、俳優が何か悪いことしたとするじゃん。そしたらさ、それって俳優を管理するマネージャーの責任でもあるんだよな」
「……どうだろうな」
「僕は少なくともそう思うよ」
「何が、言いたいんだ」
訳が分からないというような表情で、沢城が僕を睨む。
彼の視線を無視した僕は、ソファから立ち上がり、ゆっくりと目を閉じた。那智の見せた様々な表情や、耳元で囁かれたいくつもの言葉が、流れるように次々とよみがえってくる。
『愛してる』
『絶対、逃がさないから』
あの時――トイレの個室に、閉じ込められた時。
追いかけられた視線で、囁かれた言葉で、かすめるような口づけで……僕は今更、気付いたんだ。あの一挙一動はお得意の演技なんかじゃなくて、全部本気だったってこと。
熱愛報道の真相は、知らない。あいつが本当に神崎苑華と付き合っているのかも、だとしたらそれはどういうつもりなのかも。
だけど、それでも……あいつがぶつけてきた気持ちは、本当だって思ったから。本当だって、信じたかったから。
あいつは、十年も一緒にいた相手の面影を、未だ追いかけ続けているのだろうか。あんな言葉を吐いてまで、あぁやって僕を抱いてまで、十年前の想い出に必死にしがみつこうとしているのだろうか。
あぁ、那智。
僕はお前のことを、誰より愛おしいと、そう思ってるよ。
だからこそ僕は……お前をそんな風にしてしまったことに対して、どうしても、責任を感じずにいられないんだ。
「那智を駄目にしたのは、僕だ。そうだろう?」
「そんなこと……」
「現に今も、僕の存在はあいつを徐々に駄目にしている。このままじゃ、あいつはいずれ今の地位を失ってしまうだろう」
「市橋っ」
激昂したらしい沢城が、ソファから立ち上がる。僕は彼に向かい合うと、この場ではまるで場違いな、柔らかな笑みを返した。
「だから……」
今にも殴り掛からんとばかりに、僕を強烈に睨みつけてくる沢城。そんな彼に、僕は至極穏やかな気持ちでこう告げた。
「僕は、マネージャーを辞めないといけない」




