ニゲルとあおいそら
ランドマルク家の治める街<オムニブス>
以前までは閑散とし、寂れた街だったが、十年前に前領主が亡くなり、新たな統治者が現れ街は変わったと言われていた。
新しい領主は元騎士で領の統治については全くの素人だったが、退職間近だった前宰相を連れ、ランドマルク領の再生に成功させる。
こうして前宰相アルゲオ・ラティオーの尽力により、少しずつではあったがランドマルク領の財政も回復し、今では出て行った領民も戻って来る事もあって人口も回復しつつある。
そんな街中の散策を領主ラウルスは週に一度の習慣としていた。街の住人は気まぐれに現れる領主を暖かく迎える。
果物屋の主人が馬車の荷台から荷物を下ろしていたが、ラウルスが店の前に来るのが見えると作業する手を止め、深く頭を下げた。
「ラウルス様、ユーリア様!ようこそいらっしゃいました」
「ああ、荷物は定刻通りに届いているか?」
「ええ、おかげさまで!領主様のお蔭で大変楽に仕入れが出来る様になりました!」
領地の発展に一役買っているのは<天の翼>という飛行竜を使った運搬業が支柱となっていた。
このランドマルクの地には多くの竜が生息し、人に懐く品種も存在した。以前まではその竜を使い収穫した農作物を運んだり、竜に騎乗して農薬を蒔いたりなど農業に利用していた。しかしながらランドマルクの痩せた大地では上手く作物は育たず、竜の餌代もままならない状態で農業を続けている状況にあった。
そこで新たな領主となったラウルス・ランドマルクは、二つの意味で<不毛>な農業を辞める事を決め、新たに自国や他国の品物を運ぶ運搬業を始める計画を打ち出す。
元々農作物を運ぶ仕事は喜んでしていた竜をしつけ直す事は容易く、戦国・ダルエルサラートの元竜騎士の協力もあり、竜の問題は早急に解決する。ただ、問題は人間の方にあった。
<天の翼>の主な人員は農業をしていた農民達で、その年齢層は四十代から六十代という高齢者の集まりで、テスト訓練の際に長時間の飛行には耐える事が出来なかったという。
困った元竜騎士は領主に相談し、任せろと引き受けたラウルスはとんでもない場所から若い衆を連れて来てしまう。
元竜騎士が相談を持ちかけてから半月後、ラウルスは二十代から三十台代の男性を十五名ほど連れて帰って来る。アルゲオは呆れた様子でどこから攫って来たのかと聞けば、以前配属された事がある<リーフィート要塞>で、要塞の悪環境に異を唱え反乱を起こそうとしていた勢力をそのまま連れて来たと言う。
ルティーナ・ダルエルサラート両騎士団とも彼等の扱いには手を焼いていた為、あっさりと身元引き受けは完了する。反乱を起こそうとしていた者達の目的も、要塞の環境改善という高い志で行っていた訳では無く、現状からの脱出が目的だったので、喜んでついて来たという。
アルゲオの交渉とフロースの用意した資金、元竜騎士の力により<天の翼>は発足され、現在ツーティア国への輸入・輸出を中心にルティーナ国内での運搬の仕事も好調だ。
果物屋の主人も飛行竜のおかげで安く品物を仕入れる事が出来ると、ラウルスに礼を言った。
「そうか、この事業は私一人ではとても出来なかった」
「とんでもございません!領主様あっての成功です」
「…そうかな?」
頭をペコペコと下げ続ける果物屋と別れ、ラウルスとユーリア・ニゲルの三人は商店が並ぶ道のりを進む。
「意外と謙虚なんですね」
先ほどの店の主人の絶賛に慎ましい対応を取るラウルスをユーリアは意外に思った。そんな言葉を掛ける妹の肩をラウルスは傍へ引き寄せ、耳元で静かに囁いた。
「実は<天の翼>はオクリースの思いつきなんだ。以前要塞で農業用の竜の話をした事があってね、その時に彼が竜を別の事業に使えばいいと言っていた事がはじまりなんだよ。それにフロースが<異界堂>の弱みを握ってなければ、かの商人達に妨害をされていただろうし、アルゲオの交渉能力が無ければツーティアとの外交も上手くいかなかっただろう」
「!!」
「私は本当に幸運だよ。ーーもちろんこれは秘密の話だ」
ラウルスはユーリアの肩を抱いたまま歩き始めた。
「り、領主様ッ!」
「ん?」
六歳か七歳位の少女がラウルスに声を掛ける。手には真っ赤なりんごが握られていた。恥ずかしいのか俯き、そのまま押し黙ってしまう。そんな少女をラウルスは抱き上げた。
「なんだい?君も秘密の話かな」
少女の表情はぱっと明るくなり、ラウルスの耳の元で秘密話の様に小さな声で話しかけた。
「これ、お父さんが仕入れたりんごなの。とってもおいしいから領主様にも…」
「ありがとう、うれしいよ」
「そ、それとね…」
「ん?」
「えっと」
「言ってごらん」
「あ、あの!大きくなったら、お、お嫁さんにして下さい!!」
少女の告白にラウルスは満面の笑みを浮かべた。そして少女を地面に下ろした後、片膝を地面に付いて、今度は少女の耳元に囁きかける。
「ーー君が大きくなって美しく花咲き誇る頃、王子様が迎えに来なかったらね」
少女はその場で立ち尽くし、動けなくなってしまう。その小さな頭を撫で、ラウルスは先へと進む。そんな姉をユーリアは呆れながら見つめていた。
「女性を口説いた事が無いとか嘘ですか」
「あれは口説き文句では無い。幼い少女の願いを壊さなかっただけだ。それはそうと…ユーリア、地獄耳だね」
「口の動きを見て言葉を読み取っただけです」
「それは凄いな!」
「ーーああ、姉上肩に糸くずが」
「ん?」
ユーリアがラウルスの肩に手を伸ばしかけた時、遠くから悲鳴が聞こえる。
気が付いた時にはユーリアの目の前に大きな有翼の蛇の様な生き物が牙を鳴らしながら接近していた。
「ユーリアッ!!」
ラウルスはユーリアを抱きしめ、突如現れた魔物に背中を向けた。しかし想定していた衝撃は襲ってこない。
「ーー?」
振り返ればニゲルが魔物と向かい合い、剣で口からはみ出した牙を切り落としていた。肩から腕にかけて皮膚が裂かれ、血が噴出している。出血による貧血か牙に毒でも含まれていたのか、ニゲルは地面へと倒れこんでしまった。
「ニゲル!!」
ラウルスは腰の剣を抜き、魔物へと斬りかかる。ユーリアは足が竦み、逃げる事もニゲルに駆け寄る事も儘ならぬ状況に陥っていた。
ニゲルは仰向けに倒れた状態の中、霞が掛る目を擦ろうと手を動かそうとするが、上手く力が入らず持ち上げる事も自由に出来なかった。
(ーー毒か)
たいていの毒に免疫がある筈の体だったが、家から抜け出したこの十五年の間に抜けきってしまったのかと瞳を閉じてニゲルはぼんやり考える。
(--とうとう死ぬのか)
長かった、我ながらしぶとく生きたものだと自らに向かって毒づいた。
もう一度瞼を開き、目の前に広がる空を見つめる。
(ーー今日も曇り。とうとう最後は…許されなかったという訳か)
その光景を最後にニゲルの意識は途切れた。
◇◇◇◇◇
少年は眠る老人の傍へ音も無く近づき、手にしていた小瓶の中の液体を口の中へ垂らす。穏やかに寝ていた老人は次第に苦しそうにもがきはじめ、あっという間に息を引き取る。それを確認すれば少年は来た道を戻り、外に繫げていた馬を駆り暗い森をひたすら走った。
朝焼けを通り越し、家に到着したのは太陽が真上に位置する時間で、空を見上げれば澄んだ青色がどこまでも広がっている。その光景を見て少年は胸を撫で下ろす。
少年の国では<澄んだ青>は浄化の色とされていた。
(ーーこれで…昨晩の罪は許された…)
日常茶飯事で殺人を犯す度に周囲は静かに狂っていったが、少年はこの空の青を心の拠り所として自らを保っていた。もちろん本気で青空を見る事で罪が洗い流されるとは思っていない。ただの現実逃避だと認識していたが、どうしても辛い現実からの逃げ道が必要だった。
自宅へ帰ると少年の兄が居て、彼もまた現実逃避をしていた。額を床につけ、両手を差し出すように伸ばし平伏をする姿は<神鳥アーキクァクト>へ祈りを捧げる格好だ。祈祷が終わると少年に労いの言葉をかけ、食事は必要かと訊ねてきたが、とてもそんな気分ではないと首を振る。
彼の兄、青年の真っ黒だった髪は所々白くなり、武器や毒物を無意識に紛失する事があって、その様子は狂気に一歩染まっているのだろうと少年は哀れだと感じた。自分もじきにああなるのだろうと悲しく思う。
ある日、青年に揺さぶられ目を覚ます。
「教会の者がこちらに向かっています」
そう言いながら青年は少年に鞄を渡し、逃げるよう言い含める。
「シーマヌ港からルティーナへ行き、そこから南にあるダルエスサラームという国に行きなさい。そこなら暗殺術で生きて行けるでしょう」
「ーー兄さんは?」
「私はこのままここに。いざとなったら王宮へ逃げますから」
「……」
「早くいきなさい」
少年の背を押し、窓から外へ行くよう促した。その時遠くで硝子が割れた音がして、青年は腰の短剣を抜き、目を細めた。兄の初めて聞く怒号の様な「逃げろ」という叫びに驚き、少年は窓から飛び降りた。
そして用意されていた馬を走らせ、シーマヌ港へ急ぐ。
(ーー何人、殺した!?)
追手は遠いルティーナの地まで及んでいた。はじめは向かってくる者達を殺して回っていたが、武器を全て使い尽くしてしまい、馬を死なせてしまった。悪あがきとばかりに森の中を追いかけてくる者達を、撒くように走っていたが、森を抜けた先には大きな川があり追い詰められてしまう。
教会の者が放った矢が少年の肩に貫通し、流れの速い川にそのまま倒れこむように落ちた。川まで落ちる間、時間と景色はゆっくりと経過していく。一瞬見えた空はあいにくの曇天。
(ーー許されなかった、という事か)
少年の体は水の中に沈み、下流へと流されていった。
◇◇◇◇◇
二人の従騎士が沢山の洗濯物を持って川に来ていた。
「なんて見事な川なんだ!」
「普通の川だろう?」
二人は先輩騎士の服を洗いに川に来ていた。従騎士は騎士の身の回りの世話も仕事の一つだったが、洗濯は城のメイドの仕事だ。
従騎士イグニスは騎士達の嫌がらせで大量の洗濯物を押し付けられてしまい途方に暮れている時に、近くを通りかかったラウルスという同じ従騎士が、手伝おうと名乗り出てきた。お坊ちゃま騎士に洗濯など出来るはずは無いと断ったが、ラウルスの実家は貧乏で、たまに使用人に払う賃金が無いからと、自分で洗濯をする日もあったと語る。
騎士の服を川の水で濡らし、洗濯板の上で恨みを込めてイグニスはごしごしと洗った。
「イグニス、キンニク・タロウという童話は知っているか?」
「なんだよそれ…」
ラウルスは楽しげな表情で話しかける。もちろん手元が休まる事は無い。
「城に居る侍女が話してくれた話なんだが、こんな大きな川が出てくるんだ」
「キンニク・タロウね…聞いた事ねえなあ。どんな話なんだ?」
まってましたとばかりにラウルスは侍女から聞いた話を話始めた。
「むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが日々肉体改造の為に、切磋琢磨しながら暮らしておりました」
「なんだよそれ、穏やかに暮らせよ」
イグニスの突っ込みを無視してラウルスは話を進める。
「お爺さんは山へたむろしている不良農民をシバきに、お婆さんは川へ寒中水泳に出かけました」
「なんて物騒な爺なんだ!婆も下手すりゃ死ぬぞ!」
「お婆さんは念入りに準備運動終え、川に足を浸けようとした時、川の上流からどんぶらこ、どんぶらこっこと」
「人が流れてきた!!」
「そう、人が流れて……ん!?」
川の上流から人が流れて来ており、イグニスが川に身を乗り出して様子を伺っている。ラウルスは躊躇いもせずに川に下りて、人を救助しようと待ち構える。その姿を見たイグニスは「危険だ」と叫び、洗濯桶を逆に持って川に入る。
幸い深い川ではなかった事と助けた人物が小柄だった為、救助はあっさりと成功する。しかし救助した少年に意識は無かった。イグニスは口元に顔を近づけ呼吸をしているか確認する。
「生きている!」
「!!」
恐らく水飲んでいるのだろうと判断し、その水を吐き出した際に気管に入らぬよう少年の体を横にして寝かせる。
「君、大丈夫か!?」
少年の肩を軽く叩きながら意識の回復を試みる。二分後、咳き込み水を吐き出しながら覚醒をする。
「ーーウッ」
少年は肩に矢が刺さっていた。他にも負傷しており、イグニスとラウルスは少年を背負い帰った。
治療を受けた少年は静かに眠っている。
「おい」
「なんだい」
「ああして救助の為に川に飛び込む事は危険な行為だ」
「?」
「今日は相手に意識が無くて、体格の小柄な少年だったから成功した。だが、意識があった場合はその救助行為が自分の命を脅かす事になるぞ」
「そう、だったのか」
「ああ、俺の村にも川があって、暑い時期なんかは泳いだりしていたんだが、死人が出る事もあった。死ぬのは助けた側の人間も少なくは無い」
溺れた人間は正確な思考が不可能となり、助けに来た人間を正に藁にも縋る思いで掴んでくるのだとイグニスは話す。
「結果、二人共溺れ、溺死だ」
「……」
「まず、現状を冷静に判断し、飛び込む時は何か浮くものを持って行くんだ」
「イグニスは、凄いな」
「…大人達がそうしているのを見た事があっただけだ。それよりも問題はこいつだよ」
医務室の寝台の上で眠る黒髪の少年は、こちらの問いかけに対して反応は示すものの、口を開こうとはしなかった。
「名前も分からん、怪我の理由も分からん、あやしい奴としか…」
「イグニス、さっきのキンニク・タロウの続きなんだが」
「なんで今、キンニク・タロウなんだよ!!」
「まあ、聞け。それで、川からどんぶらこと流れて来たのは、見事な筋肉を纏う少年だったんだ!それでその筋肉にちなんで老夫婦は少年に<キンニク・タロウ>と名づける」
「今、激しくどうでもいい話だな」
そして何故か少年に掛けられた掛け布団を剥ぎ、指し示す。少年は上半身裸の状態で寝せられ、数箇所に包帯を巻かれていた。
「どうだろう見事な筋肉だと思わないか!?」
「……」
少年はイグニスやラウルスよりも体が小さかったが、年齢に見合わない筋肉を体に付けていた。明らかに普通ではない少年にイグニスは怪訝な視線を向ける。
「彼を<キンニク・タロウ>と呼んではどうだろうか!!」
「ーーお、お前は馬鹿か!!」
頭の螺子を実家に忘れて来ているラウルスにイグニスは力いっぱい突っ込みを入れた。その声に反応し少年は目を覚ましてしまう。
「イグニスが騒ぐからタロウが起きてしまったではないか!」
「お前も同じくらいうるさかったよッ!」
「君、大丈夫かい?」
ラウルスは少年の顔を覗きこむ。少年はラウルスの顔を見た瞬間に驚いた表情を見せ、黒い瞳から涙を流した。
「ああ、怖かったんだね、もう大丈夫だよ」
少年の頭をラウルスは泣き止むまで優しく撫で続けた。
後日、少年は「記憶喪失」と判断され、ラウルスの実家で働くオリエンス家が後見を務めると名乗り出てくれた。
「こいつの名前、どうするんだ?」
「キンニク・タロウ・オリエンスでは駄目だろうか?」
「駄目に決まっているだろう」
「名前を聞いても、何を聞いても、首を傾げるだけだしなあ…」
少年は日常に使う言語すら忘れていたらしく、まったくと言っていいほど意思の疎通が出来なかった。
「だったら<黒>でどうだろう?」
「それお前が昔飼っていた犬の名前じゃねえか!!」
「髪も瞳も黒いし、顔もよく似ている気がする」
「……」
ラウルスはニゲルと名づけた少年に近づくと、手のひらに<ニゲル>と文字を書き、その手を握らせた。
「君の名はニゲルだ。そうしよう!」
ラウルスはニゲルの顔を覗きこみ、肩を叩く。その後ろ姿をニゲルは眩しそうに見つめていた。
◇◇◇◇◇
「ニゲルッ!!」
聞き慣れた声に反応し、ニゲルの意識は覚醒する。気が付けば寝台の上に居て、片手をラウルスが握り締めていた。
(ーーまた、生き延びてしまったのか)
握られていないほうの手をきつく握り締め、ニゲルは思う。
「ニゲル、大丈夫か!?痛い所はないだろうか」
ラウルスがニゲルの顔を覗き込んだ。その澄んだ青い双眸に見つめられ、ニゲルは息を呑む。
「ーーッ!」
「どうした?どこか痛いのか、我慢をせずに言うんだ」
ニゲルの黒い瞳からぼろりと涙が溢れ、頬を伝う。違うと首を振るが、ラウルスは狼狽するばかりだった。
「そ、それとも、ここに居るのが辛いのか?故郷に帰るか?それとも行方不明になった君の家族を探して来ようか!?噂を聞いた事があるんだ、ユーリドッド帝国に居る黒髪黒目の騎士の話を」
ルティーナの言葉を喋れるようになった今もニゲルは多くを語らない。ラウルスが知っているのは、ニゲルがこの国の者では無いという事と、家族の行方は分からない事だけだった。
いつものように黙り込むニゲルにラウルスはどうすればいいか分からなかった。その時、部屋の扉が開かれ、薬湯を持ったユーリアが現れた。意識が回復したニゲルに安堵の息をもらしたが、同時に頬を濡らす涙にぎょっと驚く。
「あ、姉上…なんで、ニゲルを泣かせているんですか!?」
「ち、違う!!私は何もしていない」
冤罪だとユーリアにすがりつこうと近づいたが、薬湯が零れるからと避けられてしまう。
「ーーう」
「え?」
「ラウルスの瞳の中に故郷の空がある限り、ここに居ようと思う」
ニゲルが言った言葉にランドマルクの姉妹は顔を見合わせた。
「ユーリア」
「…なんですか?」
「ニゲルが、喋ったぞ!!」
「ーーな、何言ってるんですか!」
ユーリアは先日同じ事を思った自分を棚に上げ、姉に突っ込みを入れた。




