フロースの愛とあまり意味の無い変装と
「や、止めるんだ!」
「…何をしているんですか?姉上」
朝、いつものように食堂へ行き、新聞を広げて読んでいるラウルスに挨拶をしようとした所、珍しく焦った声が聞こえ、ユーリアは何事かと問いかける。
背後に立つニゲルはいつも通りの無表情で佇んでいて、こちらから異変は感じられない。
突然掛けられた声にラウルスは驚き、新聞紙をぐしゃりと折り曲げ声の主をそっと見る。
「ユ、ユーリア…!」
「え?」
何故かユーリアの姉の膝の上にはフロースが座っており、ラウルスの女性にしては薄い部類に入る胸に身を寄せていた。
「フロース…?」
「ち、違うんだユーリア!!」
読んでいた新聞紙をニゲルに渡し、ラウルスはユーリアに弁解をする。
「これは不可抗力であって、フロースが無理矢理座って来て、ーーッ!!」
フロースがラウルスの手の甲の肉、というよりは皮と言った方が良い部位を力いっぱい抓りあげ、声にならない悲鳴をあげた。
「姉上、どうでもいいのですが…首筋と左の頬に口紅がついてます」
「!!」
ラウルスは体をビクリと震わせ、近くにあったナプキンで頬と首を素早く拭った。
膝に座ったままのフロースはその様子を怪しい目つきで見つめている。
「いちゃつくのは人目を避けてくれると助かります」
「違う!これはフロースとの約束だったんだ!」
「約束?」
一ヶ月前、<フロースの言う事を何でも聞く>という約束をしたラウルスは、このような状態になる事など予想もしていなかった。
「ラウルスには今日一日恋人になってもらうのよ」
「は?」
「ーー辛い」
この十年、ラウルスが弱音を吐いた所を見た事がなかったユーリアは、姉の憔悴しきった姿に驚く。
「と、とにかく!恋人ごっこは部屋でして下さい」
「あら、いいの?」
「え?」
フロースの瞳がきらりと光る。ラウルスの顔は完全に引きつっていた。
「妹の許可が出たわ。お部屋に行きましょう」
「へ?い、いや、待っ…」
フロースはラウルスの膝から下り、部屋へ行こうと袖を引くが、硬直した状態のまま動こうとしない。
その様子を不憫に思ったユーリアはニゲルに同行をお願いする。
「ニゲルが居ようが、ラウルスが嫌がろうが、私はするわ!!」
「……」
「……」
何をする気だとランドマルク姉妹は戦慄したが、怖くて聞ける筈も無かった。
「そもそも姉上が悪いのですよ?中途半端にフロースを口説いたりするから」
「な!?私は女性を口説いた事は無い」
「無意識ですか」
「ユーリア!本当だ、君への愛に誓って嘘はついていない!!」
「そういう所が駄目なんですよ…姉上」
結局部屋には行くのは諦めたのか、意外にもフロースは大人しく朝食を食べ、食後の紅茶を優雅に啜っていた。
「人前で変な事をしないで下さいね、街の中で変な噂が流れているのはご存知ですか?」
「ん?ああ、<限りなく男に近い領主>とか<大型の熊や鹿が出たら領主を呼べ>とか<領主に若い女性を近づけてはいけない>とか人伝いに聞いた事あるな。ーー最後のは意味が分からん」
「……」
「決めたわ!」
いままで大人しくしていたフロースがいきなり声をあげ、衝撃の提案を口にする。
「今日は変装して街に行きましょう!ユーリア、あなたも」
「え?」
「そうと決まれば準備を急ぐわよ!」
こちらの返事などさらっと無視してフロースは動き始めた。
十五分後、衣装部屋に呼ばれ着替えを渡される。
ユーリアに準備されたのは、ニゲルがいつも着ているような仕着せで、男物だった。
「よく私のサイズに合うものがありましたね」
「ええ、ユーリアに着せようと思って買っておいた品だもの」
「……」
ため息をつきながら白いシャツに腕を通し、今日は暑いのになあと思いつつジャケットを羽織る。
フロースは茶色く長いウエーブの掛った鬘を被り、袖口がふんわりと絞られた半袖で膝丈の白いワンピースを着ていた。
「フロース、これでいいのか?」
奥の部屋から着替えを済ませたラウルスが出てくる。
用意された衣装は言うまでも無く男性もので、上半身を彩る赤錆色の布地には黒い糸で花と蔦の刺繍が縫われており、手のかかった上級品だという事が伺える。
首から腿の辺りまで体に密着した上着の腰部分には黒いベルトが巻かれていて、下は茶色いズボンにかかとの高い黒ブーツといった姿だ。
頭の方は普段の髪色と同じような頬にかかる位の短い金の鬘を被り、目元は黒縁の眼鏡を掛けて隠すという周到ぶりだった。
「姉上は普段と変わらないじゃないですか…」
「あら、素敵じゃない!!」
普段よりも踵の高いブーツを履いている為、ラウルスは現在身長が180cm以上あった。
その姿をフロースはうっとりと見つめ、ラウルスの腕に抱きつきニゲルの待つ広間へと向かう。
部屋で一人待機していたニゲルの服装もいつもと違っていた。
「どうかしら?」
「すごく…ニゲルです」
フロースがニゲルに用意したのは農民風の私服だった。
白いシャツに胸当てとつり紐が付いたつなぎの作業ズボンに、麦わら帽子を被っている。一応茶色い鬘を被ってはいるものの、普段と同じような髪型だった為、一目見てニゲルだとわかってしまう仕様だ。
「鬘意味ないですよ」
「……」
フロースはニゲルの麦わらと茶色い鬘を取り、鬘だけ傍にあった箱に仕舞う。ラウルスがボサボサになったニゲルの黒い髪を手櫛で整え、どうしようかと皆で見つめる。
「アルゲオみたいに後ろに前髪を撫で付けるのはどうですか?」
「…そうね、いつも前髪が目にかかって顔が良く見えないし、試してみる価値はあるわ」
「じゃあアルゲオに整髪剤を借りてきますね」
従僕風少女は部屋を飛び出し、整髪剤を借りに行く。
十分後、ユーリアはオクリースを連れて帰って来た。
「……」
「おや、オクリースではないか。どうした?」
「丁度扉の前に居たので」
「……」
「オクリースお願いがあります。ニゲルの髪をアルゲオみたいにして下さい」
そう言ってユーリアはオクリースに整髪用練り香油を手渡した。
「ユーリア…執事を何でも屋さんだと、思ってない?」
「出来ないんですか?」
「出来るわけ、無い」
「ユーリア、何故アルゲオを連れて来なかった?」
「朝は忙しくしているので声を掛けませんでした」
練り香油はアルゲオの私室を掃除していた侍女に持ってきて貰ったらしく、直接借りてきた訳では無いとユーリアは話す。
「朝は、みんな忙しいよ」
「ご、ごめんなさい」
そういえばそうだったと思い至り、ユーリアはオクリースに深く頭を下げる。
オクリースはため息をつきながら白手袋をズボンのポケットに仕舞い、練香油の蓋を開けると、液剤を手のひらに垂らしニゲルの前髪につけ後ろへと撫で付ける。
数回撫で付け、髪型が決まるとユーリアから差し出されたハンカチで手を拭った。
「オクリース、出来るじゃないか!」
「全然駄目、アルゲオはもっとぴしっとしてる」
「そんなの分からないわ。上出来よ」
「オクリース、ありがとうございました!」
「……」
返事もせずにオクリースは部屋を出て行く。
「なんだか申し訳無かったですね」
「いいのよ、あの子はいつも出来る癖に出来ないってうだうだ言うんだから!それにしてもニゲル、あなたそんな顔をしていたのね」
「……」
ニゲルの前髪は目にかかる位長く、身長も190cmとランドマルク領の中ではかなり大柄な部類に入る為、見上げて覗き込まない限り顔を見る事は出来ない。
こうしてニゲルがしゃがんで座り、フロースが頭上から見下ろす機会など今まで無かったので、今日がはじめてとなってしまったと言う。
「さて、準備も終わった事ですし、出かけましょうか」
「そうだな。日差しが強くなる前には帰ってこよう。この服装はとにかく暑い」
「同感です…」
「あら、お洒落には我慢が付き物よ」
お洒落は我慢だと豪語するフロース嬢の本日の服装は半袖の白いワンピースだったが、誰も突っ込む事は出来なかった。
家紋の付いていない四輪の馬車の手綱を握り、御者台に座るのは麦わら帽子を被ったニゲルで、従僕役のユーリアもその隣に座る。
石畳の街並みをゆっくりと走り、フロースに指示された店へと駆けて行く。
馬車が止まったんは宝石を扱う宝飾店だった。ユーリアは馬車の扉を開け、フロースに手を差し出し馬車から降りる手伝いをする。
「あら、なかなか素敵な従僕っぷりじゃない」
「いつもしてもらっている事をしているだけですが」
ニゲルは店の裏手にある馬車を置く場所に馬を走らせていた。
その姿を確認して、ユーリアは店の扉を開き、ラウルスとフロースを店の中へと導く。二人は恋人同士のように腕を組み、中へと進んで行った。
<カエルレウス宝飾店>
隣国ツーティアのストラルドブラグ領から仕入れたサファイヤを専門的に扱う店で、店主が直接現地で交渉し仕入れる為、他で買うよりも安価で手に入ると様々な地域から買いに来る客が居るほど有名な店だった。
「おやおや!ラウルス様、ユーリア様、フロース様まで!ようこそいらっしゃいました」
(即刻バレてる…)
頑張って着てきた変装も瞬時に見抜かれてしまい、ユーリアは一人落胆する。ラウルスは店主に微笑みかけ、フロースは虎視眈々とショーケースの中を覗いていた。
硝子のケースの中には光り輝く蒼玉が並べられ、店主が「この領地を所有するストラルドブラグ侯爵も同じ瞳の色をしているのですよ」と説明をしていた。
「本日は素晴らしい品がございます」
店主が店の奥から持ち出したのは、丸い山形に加工をし、半円形にカットされた大振りのサファイアのブローチで、光に反射した宝石には星の様な光の筋が浮かび上がっている。
「スターサファイアという宝石でございます」
フロースは店主から手渡されたブローチを「綺麗ね」と言いながら真剣な眼差しで見つめていた。
「こちらは金紅石を含んだ大変貴重な宝石で、一年に一つ採れるか採れないかという品でございます」
「そう」
恐らくフロースはブローチが気に入ったのだろう。ラウルスを見上げてにっこりと微笑んでいる。
ラウルスはフロースの肩を優しく引き寄せ、何かを耳元で囁いていた。
(フロース、無理だ!あんなの高いに決まっている!)
(ちょっとこんな所でお金の話をしないで!)
(君はこの前実家から沢山宝石を持ち帰っていただろう?)
(それはそれ!これはこれよ!)
(しかしそんなものを買う余裕はうちには無いッ)
(領民の前でお金が無いとか話すのは止めて頂戴!不安がるでしょ)
(しかし現状自由に使えるお金は限られている、いくらアルゲオのお蔭で領地が栄えても、こちらへと入ってくるお金は多くは無いんだ。正直に言おう、うちは貧乏だ!)
(知らないわよ、そんな裏事情!--この前王都に行った時お兄様からふんだくったお金があるでしょ!?それで買うわ)
(あのお金は君が嫁ぐ時の支度金だろう!?)
ボソボソと喋っていた二人だったが、時折「無理だ」「お金は無い」「貧乏」などと不穏な単語が聞こえてきた。幸い店主は知らぬ顔を決め込んでいる。
ユーリアは目の前の大人達の情けない攻防にため息をついた。
ラウルスは宝石を握っていない方のフロースの指先を握り、手の甲に口付けを落とす。
「フロース、君という女性は宝石なんかで飾らなくとも、美しい」
「……」
(そんな安い言葉でフロースが諦める訳……)
「あら、そうかしら?」
フロースはあっさりと店主にブローチを返してしまった。
(フロース、チョロ過ぎる…)
そしてあきらかに安堵の息をもらすラウルスを見て、ユーリアは「駄目だこの人…」と思った。
◇◇◇◇◇
昼食はいつもより高級なレストランに向かうようラウルスが指示を出していた。
レストランでのお世話は店の給仕がする為、ユーリアとニゲルは主人に付き添う者達が待機できる個室へと案内された。
使用人の為に用意された部屋は、普通の客室と見紛うほど綺麗な場所だった。
床に敷かれた絨毯はふかふかで、並べられた調度品やテーブルも一級品だとユーリアは驚く。天井を見上げれば吹き抜けになっており、丸く切り取られた天井には透明の硝子が嵌められ、いつでも空を見る事が出来た。
そしてしばらくすると給仕が遣って来て、ユーリア達にメニューを差し出す。
「私は苺のケーキとアイスティーを。ニゲルは何にします?」
「……」
ニゲルは無表情でメニューを見つめていた。ユーリアはニゲルがこの国の者では無く、文字もあまり読めない事を思い出し「同じものを二つお願いします」と注文した。
数分後、注文した品が到着し、ユーリアは申し訳ない気分でいっぱいになった。
「……」
「ニゲル、ごめんなさい!!」
ニゲルの前にもユーリア同様に苺のケーキとアイスティーが並べられていた。
28歳の男と苺のケーキという組み合わせは激しく違和感があった。
(ば、馬鹿だ。なんでニゲルにもケーキを頼んだのか)
以前ラウルスと三人でレストランに行った時も、ニゲルの意見を聞かずに勝手に姉がキノコのリゾットを注文し、不思議な顔をしながら黙々と食べていたのを思い出す。
(あの時なんでニゲルの意見を聞かないんだろうと思ったのに、姉上と同じ無神経な行為をしてしまうなんて!!)
ユーリアは激しく己を責めたが、ニゲルは気にしていないのかケーキを頬張り始めていた。
「あ、あの」
「ーー?」
「姉とか私を迷惑に思っていますよね?」
寡黙な従僕が不満を顔に出す事は今まで一度もなかった。もしや鬱憤がたまっているのではないのかと思い、ユーリアは勇気を出して訊ねる。
「故郷に帰りたいと思った事はありませんか?」
「……」
ニゲルはユーリアの言葉に首をかしげ、天井から吹き抜けになった空を見上げた。ユーリアもつられて空を見上げるが、生憎の曇天が広がっている。
結局そのまま会話は途切れてしまい、時間だけが静かに過ぎ去って行った。
ユーリアとニゲルはもうすぐラウルスとフロースの食事が終わるという知らせを受けて、店の前に待機をしていた。
ニゲルを見上げると、またしても空を見つめていた。
空は依然として曇っている。
「ニゲル?」
「ーー故郷の空はラウルスが」
「え?」
それ以上ニゲルは語らず、空を見上げたまま佇むだけだった。
(??もしかしてさっきの問いかけの答え?でもどういう意味が…?)
もちろん聞けるような雰囲気ではない。
ユーリアはラウルスとニゲルの間には、語ることの出来ない男と男の友情物語があるのだろうなと完結させ、考えるのを止めた。
(っていうか、ニゲルが喋った!!)
そんな失礼な事を考えつつも、その日の従僕体験は終了する。