シスコンという重度の病ー2
「あ、あの申し訳ありませんご主人様、今水を張ったばかりでまだお湯は沸いておりません」
浴室に向かえば扉の前で侍女が申し訳なさそうに頭を下げていた。
「ほら言わんこっちゃない」という視線をユーリアは姉に投げかけ、洗面所で爪の手入れをするからと言い、抱き上げた状態からの解放を訴える。
無事に床へと下ろされたユーリアは洗面所に行き、洗面台の引き出しから道具を取り出し、手入れを始める。
「ああ、問題ない。オクリースを呼んで来てくれるかい?あと石の準備はいらないよ」
「はい。畏まりました」
城にある風呂は全て焼いた石を入れて沸かす。冬場は暖炉に直接石を放り込めば問題なかったが、今の暖かい時期は風呂の為だけに火を起こし石を焼かなければいけないのでどうしても時間が掛かってしまう。
ほどなくして眠そうな顔をした執事が現れる。
「何?」
「何じゃないだろ」
「何が?」
「……」
首を傾げながら用事とラウルスが怒る理由を尋ねているのはランドマルク家の執事、オクリース・アリュキュリマだ。
まだ二十三歳と若い執事は藍色の瞳を細め、しばし考える素振りも見せるが、途中で欠伸が出てしまう。
「君は本当になってない。私の育て方が悪かったのか」
「多分、そう」
生意気な事を言うオクリースの左右の頬をラウルスは軽く引っ張り、離す。オクリースは間の抜けた声で痛いともらし、引っ張られた頬を撫でる。
「主が帰って来たら<お帰りなさいませ、ご主人様>だ」
「…お帰りなさいませ、ご主人様。ーーで、用件は何?」
「ああ、湯を沸かしてくれないか?」
「何で?」
「主の命令は全て<はい、喜んでー!>だと教えたろうに!風呂を沸かすのは、汗臭くて今すぐ入りたいからだ」
「別に汗臭いと思わない、けど」
「抱きつけば分かる!確かめるか?」
「いい、遠慮しとく」
オクリースはこれ以上反抗するもの面倒臭く思い、のろのろと浴槽まで歩いて行って、白い手袋をかごの中に放り投げると魔方陣を描き始める。
「火の魔術とか、苦手なんだけど」
ぶつぶつと文句を言いながら、浴槽の側面に魔力を液状にして出すと指先で呪文を結び、編んでいく。
最後に大きくマルで囲むと魔法陣が発光して、中の水がぐらりと沸騰したかのように泡立ちはじめた。
「温度は?」
「今日は暑いから温めで」
オクリースが呪文を唱えると魔術は完成し、温めのお湯が完成する。
魔方陣は術の完成と共に消失し、浴室は何事もなかったかのようにそのままの状態に戻った。
「気持ち悪い、吐きそう」
「大丈夫か?」
「今日はもう、駄目」
「そういえば、オクリースの先天属性は何だったか?」
「<水>。だから逆の<火>は、嫌い」
「それは、悪かった。前に水の魔術が得意だと言っていたな。今度は水を張る時に呼ぶから」
「もう、呼ばないで…」
口元を押さえながらオクリースは居なくなる。
彼は十年前に王都から連れて来た元魔術師団の団員で、先月までラウルスの従僕をしていたが、城内での仕事を希望した為、他に出来るような仕事も無かったので仕方なしに執事になったという経緯があった。
具合が悪そうに去って行ったオクリースに悪いと思いつつも、洗面所にいるユーリアに声を掛け、服を脱ぐ。
ユーリアが脱衣所へ行くとそこにはラウルスの姿は無く、浴室の扉には湯を浴びる人影があった。
床に脱ぎ捨てられた姉の服を拾い集め、浴室へと繋がる扉を開く。
「ああ、丁度良かったよ。今髪と体を洗い終えたばかりなんだ」
「呼ばれてから五分と経って無いはずですが?」
「すっかり綺麗そのものだよ」
あまりにも早過ぎる洗髪と体を洗う行為に、ユーリアは眉を顰めた。
騎士時代に身につけたものだと言っているが、女性としてはどうなのだろうかとため息と共に体に湯を流す。
「それで見ての通り私の体は綺麗になったから、こちらへおいで」
「は?」
「体を洗ってあげよう。前を隠す必要もないよ。タオルはそこに置きなさい」
「な、体位自分で洗います!」
「何故?」
「オ、オクリースじゃないんだから何故とか何とか聞かないで下さい!」
両手を広げ妹を抱きしめようと待機していたが、ユーリアは後ろに後退するばかりで近づこうとしない。
「だったら髪を洗ってあげよう」
「お断りします」
「ではどこだったら洗わせてくれるのか」
「幼子では無いので自分で洗えます!!」
「そうか…そうだな」
落胆の声をあげ、ラウルスは大人しく浴槽へ浸かる。
オクリースが温めてくれたお湯は良い加減で、疲れが取れるような気がした。
姉が静かになったのでユーリアも体を洗い始める。
「大きくなったな」
「え?」
「昔はあんなに小さかったのに…」
十年前、騎士だったラウルスが父親の後を継ぐ為に領地に帰って来た時、ユーリアは不安で仕様がなかった。
姉といえば一年に一回ランドマルク領に帰って来るか来ないかの存在で、物心ついた頃から記憶にあるのは兄よりも背が高く腰には剣を常に佩いていて、幼いユーリアは怖ろしい人物だと思っていた。
そんな好きと嫌いの関係だった二人だが、その壁が崩れるのも早かった。
残された姉妹二人、初めての融和もこの浴室だったとユーリアは思い出していた。
「姉上とまともに接する事が出来たのは、こうして一緒にお風呂に入った時でしたね」
「そうだな、それにしても本当に大きくなった」
「……?」
先ほどからラウルスと視線が交わらない事を不思議に思ったユーリアは、姉の視線の先を探す。
視線を追うと首から下、ユーリアのその年齢にしては育ち過ぎた部位に目線はあり、恥ずかしさと意味不明さと相俟って絶句する。
「!!」
ラウルスの視線の先、それはユーリアの豊かに育った二つの果実だった。
慌てて手元にあった洗面器で前を隠し姉を睨みつけるが、当の本人は知らぬ顔で青い瞳を瞬かせている。
そしてあろう事か、ユーリアの守りに対して苦情を言ってきた。
「ユーリア、見えない」
「見なくて結構!!」
「良く見ないとイグニスに報告できないだろう?」
「な、なな何を言っているんですか!!」
ユーリアは手にしていた洗面器を姉目掛けて投げたが、あっさりと避けられてしまう。
「安心して欲しい。昔からユーリアの成長の喜びを分かち合うのはイグニスただ一人だけだ。イグニス以外には口外しないよ」
「パ、パルウァエ卿にも言ってはいけません!」
「直接伝えるのが恥ずかしいと言うのなら、手紙に認めるようにしよう」
「手紙も駄目です!」
ユーリアは馬鹿らしいと呟き、体の泡を適当に流し姉の待つ浴槽へと浸かった。
湯の中には香油か何か垂らしているのかほんのりと甘い香りがして、今までの荒れた心が少しだけ癒される。
「どうして姉妹でこうも違うとは」
「……」
「まあ、私のここが貧しいおかげで騎士隊の同僚たちは間違いを起こさないで済んだから、よしとするか」
ラウルスは自らの痩せた大地を見下ろし、ため息をつく。
そして腹いせに近くに居たユーリアの細い腰を寄せ、滑らかな十代の肌を指先で堪能し始めた。
「や、やめてください」
「むう…」
ユーリアに本気で嫌がられ、その魅惑的な戯れも一瞬で終わる。
「そういえば姉上、シャツに口紅がべっとりついておりましたよ」
「口紅?」
「ええ」
先ほどのような行為をされないよう距離を取りつつ、話を振る。
何故かラウルスは昔から女性関係のいざこざに巻き込まれる事が多かった。
そのもめごとに何故かユーリアが巻き込まれる事もあり、今回も面倒ごとを持ち帰って来たのではと疑いの目を向ける。
「ああ、多分フロースのだよ。帰る前にもみ合いになったんだ」
「……」
フロース・ユースティティア。
ランドマルク家の侍女で、ラウルスのせいで道を踏み外してしまった女性の第一号ともいえる存在だった。
◇◇◇◇◇
「ラウルス!先に帰るってどういう事!?」
フロースは外で馬を準備していた従僕からラウルスが先に帰る事を聞き、部屋へ押し入る。
中には乗馬に適した服装に着替えるラウルスと手伝う従僕の姿があった。
「済まない。ユーリアが心配なんだ」
「意味が分からないわ!っていうかなんでラウルスが着替えているのにあんたが居るのよ!!」
ラウルスの上着を持ち、黙って佇む若い男を指差す。
従僕の名はニゲル・オリエンス。従僕の中では一番の古株で、ラウルスの影のように付き添うのが常だった。
「ああ、ニゲルが居るのを忘れてたよ」
「誰が着替えを手伝っていると思ってたのよ」
「フロース」
「……」
どうやらすでに頭の中はランドマルク領に残してきた妹の事で一杯らしい。
男の主人ならば従僕に着替えを手伝わせる事も普通だったが、ラウルスはこう見えても女性に分類される。
女の主人ならば着替えの手伝いは侍女に任され、それはフロースの仕事に分類されていたが、荷物を積み込んでいる間に奪われていようとは思いもしなかった。
「ラウルス!自分の性別も忘れてない!?」
「覚えているとも、おそらく女だ」
「そうよ!襲われたらどうするつもりだったの?男は皆野獣なのよ」
「ニゲル、私を襲いたいと思うか」
「ーーいいえ」
「ほら、問題ないだろう?」
さらっと失礼な事を言うニゲルの脛をフロースは蹴り上げたが、足の甲に痛みが走り、その場にうずくまってしまう。
「い、痛っったあ!!ニゲル、あんた脛に鉄かなんか仕込んでるでしょ!?」
「はは、脛に鉄なんか仕込むはずはないだろう、なあニゲル?」
「ーーはい」
ニゲルと呼ばれた黒目、黒髪の従僕は静かに頷く。
彼はラウルスよりも背が高く、一見細身のようにも見えるが髪と同色の仕着せの下は屈強な筋肉が眠っている事をフロースは知らない。
「ニゲルの性癖なんてどうでもいいわ」
「確かに、激しくどうでもいいな」
自分の事だというのにニゲルの表情は変わらず、ラウルスの腕に上着の袖を向け、着易いように待機していた。
「そう、そうよ!なんで馬車で帰らないのよ。単独で馬を駆るなんて危険だわ」
「馬車だと時間が掛かるだろう?それにニゲルも共に行くから安心して欲しい」
「ニゲルが!?なんで…それにユーリアは逃げないわ!」
「私が我慢できないのだよ」
ニゲルが用意した上着を羽織り、前のボタンを止めようとしたとき、胸元にフロースが飛び込んで来る。
「私も一緒に行くわ」
「女性には辛い道のりだ。二日ぶっ通しで馬を駆る」
「嫌ッ置いていかないで!っていうか貴方も女性でしょ」
「お願いだフロース、言う事を聞いてくれ」
「嫌よ」
押し問答すること一時間、帰ったらラウルスがフロースの言う事を一度だけ聞くという条件を出し、その場は収束をする。
◇◇◇◇◇
「ーーという事があって、口紅がついたのはその時だろう」
「……」
フロース・ユースティティアのラウルスへの心酔は異常だとユーリアは思う。
彼女は公爵家の人間で、王位継承権をも持ちながらそれをあっさりと放棄し、十年前何もなかったランドマルク領に生前配分された父親の財産全てを持ち込んで遣って来た猛者だった。
当時十四歳という少女の暴走を周りは止める様説得したが、聞く耳持たずな状態で現在に至る。
「私の結婚相手の前にフロースの相手を先に探さなければいけないのでは…もう今年で二十四歳でしょう?」
「まあ、大丈夫だろう。私も三十だ」
大丈夫な状態に聞こえないのは何故だろうとユーリアは真面目に考える。
フロースもフロースでラウルス同様に結婚への危機感がないのが問題だった。
ーー姉の結婚。
(想像するのも難しい)
姉というよりは兄に近い、母というよりも父と呼んだほうが違和感が無い。
ラウルス・ランドマルクとはそんな女性だ。
口まで湯に浸かりながらラウルスを見上げる。
金の髪はユーリアよりも薄く、青い瞳は家族の誰よりも明るく澄んでいた。
(何故姉上が綺麗だと、男の人は誰も気付かないんだろう)
浮いた話を一つも聞いた事が無かったし、親しい男性といえばイグニス・パルウァエの名をよく耳にしていたが、屋敷を訪ねて来た事など一度もなかった。
ぐるぐると思考が飛び交う内に、自分の視界も回っていることにユーリアは気がつく。
「ユーリア、顔が赤い。もうあがろう」
「…ん」
そう言ってユーリアの腕を引き立ち上がらせる。視界がぐらりと歪み、知らないうちにのぼせていたのだと自覚する。
結局脱衣所で軽い眩暈を起こしてしまい、ラウルスに体を拭かれ服を着せてもらうという恥ずかしい状況になってしまった。