Ⅰ
神様は、崖から突き落とされました。神様は、神様の国から追い出されました。神様の国で持っていた何もかもを失いました。
神様が持っていたのは、自分の体と、人々を守る術。そして、神様にはおよそ持つ資格のないような、おぞましい心でした。
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ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。
世界の神様からも、門番の神様からも見て見ぬふりをされてきた国がありました。その国は、あるときは洪水に全てを流され、あるときは豪雪に全てを埋められ、突き刺す寒さと不作に喘ぎながら、幾度もたくさんの命を失い、幾度も滅亡の危機に晒されてきました。
その国だけがそういった危険の中にいたわけではありません。隣国だって、海の向こうの国だって、未だ見ぬ霧に包まれた国だって、たくさんの天災に悩まされてきました。でもそういった国々には国を守ってくれる神様がいて、民が喘いだり、滅亡の危機に瀕するたびに、神様が助けてくれました。
でも、寒い寒いその国には、神様は来てくれませんでした。隣国の神様も、知らんぷりです。民も、女王も、国を守ってくれる神様が来てくれるのを、ずっと待ち望んでいました。
近頃、雨が止みません。多すぎる雨は農作物もだめにしますし、洪水を起こして全てを奪い去ります。ああ、今日も神様はいらっしゃらなかった。民は、水かさの増えた川を遠い目で眺めながら、嘆くのです。
そんな寒い寒い国を騒がす、一人の男がいました。黄緑がかった金髪を無造作に逆立て、体のサイズに合っていないぶかぶかのロングコートを着た、決して立派な体格をしているわけでもないその男は、大刀を背負った鳶色の長髪の友達を連れて、王城に侵入したようです。過去の栄華の面影を残す豪華な王城の一角の屋上の淵で、その男は、雨に濡れながら、短い腕を大きく広げて、寒さに震える民衆に叫んでいます。
「俺は、このインジェリット王国を救うために降臨した! これより俺は、この国の守護神となり、おまえたちに富を授けよう!」
民衆がざわつき始めると、男は今まで以上に、大きく大きく腕を広げました。すると、男の足下に描かれた『魔法陣』という、大きな大きな円の模様が、水色に輝き始めました。
「手始めに、この大雨を、止ませてやろう!」
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煉瓦の屋根や石で舗装された道路を大きな雨粒が叩く音。大きな声を出さないと会話も儘ならない状況を作り出していたそれは、徐々に小さくなっていきました。見上げれば雲間からは青、暗かった王都は明るくなりました。ここ最近、全くお顔を見せてくれなかった太陽が、雲と雲の隙間から顔を覗かせました。陽光が露に濡れた王城を、雨粒の滴る神様の笑顔を照らし出しました。勝ち誇ったような、自信の満ちた笑み。国民にはそれが、国民の平穏で豊かな生活の保証をする、彼の揺るぎない自信を表す笑み以外の何にも見えませんでした。
始めは、神様を神様と信じない人もいました。その国は、農業の発達した農村部と、学術研究に発達した都市部に分かれていて、神様の奇跡を信じようとしない人は専ら都市部の人でした。洪水に畑を流され、長雨に作物を腐らされた農民たちは、神様を崇めました。その国を災害が襲う度、神様は『魔法陣』を使って、災害から国を救いました。
いつしか、神様の名前は守護神の代名詞としても定着しました。やがて神様は、都市部の人間たちに認められるようになり、多くの人間に歓迎されながら、守護神としてその国に君臨しました。
神様はまずその国の女王様と婚姻関係を結びました。もし仮に俺がいなくなったり、俺の力が衰えたりしたら、この国を守る神はいなくなってしまう、だから半人半神であれ、俺の子を残しておくのだ、王族の血に神の血を混ぜるのだ、というのが神様の考えでした。女王様は始めは渋りました。しかし、敬愛する女王様と崇拝する神様がご結婚なさるのです。国民からすればこれほどおめでたいことはありません。国民はすっかり祝福の空気を漂わせています。それはもう、女王様が神様との婚約を拒否できないほどにまで。
いざ婚約してみれば、子を設けるまで長くはかかりませんでした。女王様は淑やかで奥ゆかしく、神様は明るく無邪気で、二人の相性は驚くほどよく、驚くほど早く恋に落ちてゆきました。
女王様が子を身ごもると、その知らせのためだけに国はお祭り騒ぎとなりました。神様万歳、女王様万歳、その声轟くところの中心には王城のベランダがあり、女王様の体を神様が支えつつ、共に立って微笑を湛えながら手を振っていました。
やがて双子が生まれました。女王様の深緑の髪を受け継いだ、女の子と男の子の双子です。その国の王位は代々女が継ぐことになっていましたから、男の子の立場はあまりよくないものではありますが、とにかく国は再び祝福のお祭り騒ぎとなりました。否、実際に生誕祭が行われました。
華やかなその騒ぎの裏、華やかな王城の一室、神様の寝所で、不穏な火花が散っていました。
「貴方、知っているの? 今インジェリット王国では、王族が不要だと声を挙げる者まで出始めているのよ」
窓から見える空は曇り空、もう日が落ちているのに、外では魔導機灯が煌々と輝き、お祭りが続いています。いきなり部屋にやってきて、苛立ちを含んだ声でそう訴えてきた女王様に、神様は目を丸くしました。女王様はもう質素なパジャマを身に纏っていましたが、神様はまだ着替えておらず、ぶかぶかのコートを着たままです。
「王族に敬意を払えない者は、いつの時代どこの国だって出てくるもんだよ」
神様の向かっている机の上には夜食のパンとホットミルクが置いてあります。もごもごと答えた神様は、回転椅子をくるりと回し、女王様に体を向けました。女王様は神様の答を聞いても眉を顰めています。これは食べながら話す空気ではない、さすがにそう感じ取った神様は、口の中のものを飲み込んでから口を開きます。
「王族がそいつらに負ければそれまでの国は滅んで新たな国が出来ちまうし、そいつらに勝つから国は長らえるんだろ」
神様は至極当然のことを女王様に説きました。しかし女王様の求めていた答はそれではありませんでした。
「何故そういう者達が出てきているか知っている?」
言わんとすることを察しない神様に、女王様は小首を傾げて確認しました。心なしか焦慮を含んでいます。
「『この国には神様がいる。この国は神様が守ってくれる。だから、もう王族は必要ない』って」
女王様の力の入った声。神様は別段驚きはしませんでした。
「そりゃあ形式的になったとか、力のなくなっちまった王族の末路だな」
神様は至極当然のことを女王様に語りました。
「ジュリア、お前のせいで王族が力を失ったとかそういうことじゃねえ。一昔前……まだインジェリットが中立宣言する前とかは、軍を上手く動かして領土を広げた女王や、反乱を治めた女王がいたんだろ? そういう女王は愛されるだろうけどな」
「私の政治が悪いと言いたいの?」
「そうじゃねえよ。ジュリアは農村部の隅々まで救済しようと頑張ってんじゃねえか。ただ、どうやったって今の技術じゃ救えねえもんは救えねえ。疫病、不作、天災、まだまだ避け方は分かってねえもんばっかりだ。だから俺が天災を鎮めてるんだろ」
女王様は俯いて黙り込みました。分かってくれたか、神様は安堵の笑みを浮かべた瞬間でした。
「つまり、私が力を失っているのでしょう」
俯いたまま、女王様から低い声が漏れました。神様の笑みが凍り付きました。女王様が顔を上げます。神様と目が合いました。神様の目が見開かれました。
「貴方が力を発揮するごとに、」
「ジュリア」
「相対的に、」
「ジュリア」
「私が、」
「やめろ」
「力を、失っ――」
「やめろって!」
言葉を止められなかった女王様。声を荒らげてしまった神様。お互いに分かっていたのです。その言葉を言ってしまえば、女王様はその言葉を言うために胸をひっかかれ、その言葉を言わせてしまえば、神様はその言葉を言わせたために胸を貫かれることを。女王様の瞳が潤み始めました。間もなくその頬に一筋の涙が流れました。神様は立ち上がり、女王様に歩み寄ろうとしました。しかし女王様の言葉が神様の足を止めます。
「お母様やお祖母様や、ひいお祖母様、ひいひいお祖母様……歴代女王が守ってきた歴史を、私が絶やすことになるなんて、それだけは、耐えられないのです」
女王様は手で涙を拭いました。
「でも、洪水のために溺死する者や、餓死する者を、貴方が救ってくれて嬉しいのも、事実なのです。私は……私はっ……」
その先は、嗚咽のせいでまともな言葉は出せず、みっともない様を晒すことになるよりは、と、女王様は何も語らず、嗚咽だけを漏らしました。神様は再び歩み寄ろうとしました。すると女王様は逃げるように、部屋から駆け足で出ていきました。女王様の涙を拭くだけの勇気も、震えるその体を抱きしめるだけの愛も、神様は、捨てなければならなかったのです。
――――
生まれた王女様と王子様は、女王様に似ていました。王子様に王位継承権はありませんでしたが、神様も女王様も二人を等しく愛しました。王女様はお人形や絵本に囲まれて室内で、王子様はお外で暴れ回って遊びました。二人の教育方針は全く違ったので、一緒に遊ばせることはあまりありませんでした。女王様は普段政に忙しいので、神様はよく王女様と遊びました。王子様には、神様の友達をつけて、王子様の相手をさせました。神様の友達は剣を背負っていたので、成長するにつれ王子様は剣術に興味を持ち始めました。それはいい兆候だ、姉を守るよき剣になるだろう、神様の友達の報告を受けて、神様と女王様は笑い合いました。
でも、女王様の心配は、年を経るに連れ深刻なものになってきていました。
この世界に満ちる、魔素という根本的なエネルギーを使用して動く、魔導機という機械。神様はその研究や開発を推進していました。魔導機は、魔術などよりも大量に魔素を消費し、環境に悪いと、あまり良い目で見られていません。それでも研究や開発を進めるのには、神様が人間には必要不可欠だと言うのです。魔術の扱いに長けたエルフや、エルフよりは劣れども、魔術の扱いも身体能力も人間より優る竜。彼らの国からこの国を守るためには、富や豊かさを得るためには、スイッチ一つで魔術以上の力すら発揮する魔導機は必要不可欠だと神様は言うのです。
それを聞いた女王様の顔が青ざめました。
「何を言っているのですか。貴方は侵略戦争でもするつもりですか」
問答の舞台はまたも神様の部屋でした。窓には清々しい晴れ空が映っていますが、この国は今日も寒いです。神様は回転椅子をくるりと回して女王様に体を向けました。
「隣に竜の国があるだろ。あそこは怖いぞ。今でこそ平和だが、先代なんて暴君だったんだ。あそこは暴君を出しやすい仕組みになってる。いつ政権交代して攻め込んでくるかも分かったもんじゃねえ」
「我が国は中立国宣言をしています」
女王様は怒気ばんだ声で反論をしました。神様は溜息をつきます。
「それさえ気にしないイカレた暴君だって出しかねないんだよ」
「だからと言って侵略をするのですか? 我が国は中立国宣言をしているのですよ」
「作物の実らないのばかりは俺もどうしようもない。あんだけ広くて暖かくて豊かな土地持ってんのに、こっちには高額でしか流さねえ。悪いのはあっちだし、少しくらい土地頂いても支障はねえよ」
「だからって……」
女王様は言葉を失って、俯きました。神様は回転椅子をくるりと回して、女王様に背を向けました。机に向かい、窓から外を覗きます。ある人たちが神様の目に止まりました。神様は窓を開けます。冷たい風が入ってきて、女王様は驚きに顔を上げました。神様は、よく聞け、と静かに口にしました。女王様も耳を澄まします。外から怒号が入ってきました。
「あんたたちのその魔導機ってのが、どんな影響を及ぼすのか知ってんのか! 魔素は無限じゃないんだぞ!」
「何だと! お前達農民は、俺たちがどんな思いして不作のメカニズムを探ってるか知らないんだろ! その研究のためにも改善のためにも魔導機は必要なんだよ!」
「不作は作物そのものに原因があって、改善なんて出来やしないんだよ! 現にあの神様だってそればっかりは改善してくれねえじゃねえか!」
「神様にだって出来ること出来ねえことあるに決まってんだろ! お前達はいい加減何も出来ない女王様捨てて、神様の言うことに従ってりゃあいいんだ!」
「女王様に対して何てことを言うんだ! 代々この国を守ってきてくださった方々だろ!」
「今国を守ってんのは神様だろ! あの女は――――」
そこで神様は窓を閉めました。視線を落としながら、女王様の方を向きます。この国の目に見えない惨状に、女王様は目を剥いて、口に手を当てていました。ただ呆然と立ち尽くす女王様に、神様は告げます。
「もう、無理だ」
部屋に満ちた寒い静寂が、残酷な現実を突きつけます。目を背ければ悲しい結果しか訪れません。けれども今ここで採らなければいけないのも悲しい選択でした。神様は重い唇を開いて、重い言葉を吐き出します。
「俺は学術都市カルトで、独立宣言をする」