夢亡き仔
教室に響く怒号のような大声に手や机をたたく音。教室に入れば酒の空き瓶や缶が転がって、つまみのゴミが散らかっていても何ら不思議はないような、そんな騒ぎである。
ここまで騒げば普通すっ飛んでくるはずの教師達も今日だけは大目に見ようと言う事なのか、それともただただ忙しいから来ないのか知らないが顔も覗かせずにいる。果たして教師が本当に前者のように思っているのかは分からないが、仮にそう考えていたとしてその考え方が正しいのか間違いなのかなんて、俺には分からないし考えるつもりもない。無駄な時間になるのは予想するまでもなく分かる。
でも、そこで騒いでいる奴らからしてみれば、教師の出てくることは無情なまでに無粋なことで興醒めるに違いない。もちろんそうならない事を望んでいるだろう。
残念ながら俺は大して望んではないがな。と言うのも、俺はこの教室にいる大部分の人間とは一歩違う所にいるのである。同じ場所で同じように笑っていても一緒手を叩いても、何故か俺とこいつらの間には壁があって、取り残されている気がしてならない。今の状況を簡単に言い表すなら……『つまらない』。でも笑ってる。
別に嫌われている訳でも皆を嫌っている訳でもない。それは分かる。でも俺は、ここに特に必要でもないだろう。クラスを盛り上げてる訳でもないからな。居れば居たで気にしないが、居なくても何も変わらない。そんな存在に思われているに違いない。
俺から友達と呼べる奴はいないし、大切な奴なんていない。こんな所、何が面白くて居るのかさっぱりだ。
そんな俺に今日この日に泣ける訳はない、黒服にサングラスの黒人数人に取り囲まれて、銃を見せられて何億積まれてもきっと無理だと思う。今、黒板上の時計は8時45分を指している。時計も難儀な奴だ。こんなクソつまらない所で毎日毎日、同じ事を繰り返しているのだから。ここまで言う俺に、では何故入学したのか、出席する必要はあるのか、などいろいろ言う事があると思うが単純に地元のレベルの低い奴らと肩を並べるのが嫌だったからで、欠席するのは負けた気がしてならないからであった。と言っても、俺はそれほど頭がいい訳ではない。クラスでも下から数えた方が早いし、学力が高い奴らなら地元にだって腐るほどいる。
……分かっている。じゃあ何がしたかったのか…………俺は今日まで過ごせばわかると思って来た。しかし全く分からなかった。それどころか、遣る瀬無さは募っていくばかりであった。就職先も見つからず、進学も出来ず、父親は毎日のように俺に罵声を浴びせた。母親は庇ってくれたが、父親と対立して喧嘩ばかりしているのが気の毒に思えて俺の事なんか放っておけ、と言いたかったが、一人になるのが怖くて甘えが俺に歯止めをかけた。
式典中も気持ちに変化はなかった。入場の瞬間に母親の姿が目に入り、緩い笑みが更に俺を苦しめた。いつもは見つけられないのにこんな時だけは一番最初に目に入ってしまう。その後、後輩たちと保護者の視線を受けながら椅子に座って、落ち着いた俺だったが、校長のアイスブレイカ―のジョークに笑っている顔は造り物である。何も考える事は出来ず、視界に入るとしても紅白幕程度で卒業生代表が泣きながら話していても、父兄代表が大声で祝辞を述べても、俺にはそのまま、紙に書かれている薄く奥の無い言葉にしか思えない。聞こえていたのかさえよく解りはしないのだ。
ここまで言えば分かるだろうが今日は卒業式だ。
式後、気付けば母は早々に学校から出て行っていて他の親とは違い、俺も元には来なかった。まぁ、こんな出来の悪い息子の卒業式ではそうしたくもなるだろう。俺は一人、誰も残っていない教室で机に向かっていた。特にすることもない。辛いのかと問われれば、そうだと言わざるを得ないが別にもう慣れている。友達が離れて行くのも親が俺に悲しそうな顔を見せるのも。
無論、誰もいない祭りの後の寂しい教室の窓辺に一人机に向かっているのは他の生徒との関わりを拒絶するためである。誰にも出会いたくない。
俺は今日を祝って楽しめる奴が憎くてしょうがない。それが周りのみんなにどうする事も出来ない俺の自己中心的な考えだとわかっていても、今の俺にはどうにも出来ない。
「おい九、教室締めるから出てけ」
「もう少しだけ居たら駄目ですか……」
父親の言い付けで部活に入らなければならず、俺が渋々入ったのは文芸部。こんな時に限ってその部の顧問が現れる。今思えば、俺のことをちゃんと呼ぶのはこの人だけだ。皆俺を『くいち』と呼ぶ。それは俺の名字が『九』一文字で『いちじく』と読むから九九の『くいちが九』を捩っている。しかし、このあだ名で呼ぶ奴は俺と距離を置きたい奴ばかりだ。本名で呼びたくないから自分たちが付けた名で呼ぶのだ。
「この後ウチアゲなんだろ? 置いていかれるぞ」
「…………」
まさかここにも居られなくなるとは……。
何故こんなことが起きているのか理解できないが、俺は集合写真を撮っている同じクラスの奴らを横目に見ながら校門を出て帰路についていた。繁華街に近い訳でもなく、これと言って盛り上がれる場所が近くに無い。きっと電車でクラスの奴らはカラオケかゲーセンにでも行くのだろう。そう思いながら俺はひたすらに無理にでも帰路にしがみつくように歩いていた。
三月とは言え、まだまだ寒い。ネックウォーマーと手袋があっても俺の体は震えていた。幸いなことに我が高校は比較的我が家に近い。比較的近いと言っても、先ほど地元の高校には行かなかったと言った通りで、自宅まではそれなりに距離がある。バスを使うのが一番の近道なのだが、生憎一銭も持ってはおらずほぼ強制的に歩くことになってしまった。
「我が母校、か……」
校歌のフレーズのラストが急に頭に浮かびあがって来て無意識に呟いてしまう。
「あぁーあー、マイクテスっ。……何もかもが面倒に思えてくる今日のクソ良き日に、馬鹿みたいな建物を見なくてよくなり、大変嬉しく思います。腐ったモンに馬鹿みたく集まる蝿のようにうじゃうじゃとご臨席を賜りまして、クソ面白くなく思います。大して暖かくもないのに趣やら風情やらに身を任せた嘘の春の情景表現ばっかりで嫌になりますが、それも今日までだと思うと気が楽で楽で仕方がありません」
帰路の序盤の序盤、通りかかった鉄橋で変な台詞が聞こえてくる。しかし、思い当たるような人の姿は見当たらない。マイク使ってねーだろ。
橋の上まで行くと分かった、声の聞こえる方向は橋の下。橋から下を覗けば、人のらしい足が見える。土手と呼ぶにはあまりにも貧相に思える所に一人の男が寝ている。
制服は俺らのブレザーとは違い学ランで見覚えもない。
しかし俺にはさっきの台詞が痛いほどよく似合う、そう感じてしまった。良い言葉だとは思わないが。
「どうもこんにちは」
「……あ、あぁ」
この場合、俺に言ってるんだよな? でも話しかけられる覚えはない。それどころか、向こうからは顔も見えてはいない筈だ。
「いいから降りて来いよ。寝てる方が立ってるより楽だぜ」
橋の横に回って、下に降りてみる。体つきがいい訳でもガリガリでもない一般的な中肉中背な学生が両手を枕にしながら寝ている。顔もカッコ悪い訳でもなく、かと言ってイケメンでもない。こんな所に寝て何がしたいのかも知れない。
「ほらよ」
缶のコーヒーが二次関数のグラフみたいな弾道を描いて飛んでくる。
「これ……」
「あんたにやるよ。誰か来るのを待ってたんだ。一人で二本も飲む気にはなれない」
「誰かって誰だよ」
「オレに気付いてくれる誰かさ。人はおろか猫さえも立ち止まっちゃくれなくてよ」
どうでもいい。……でも、こいつが気になる。そして、俺を引きつけた何かが何なのか…………。
「つーか、お前どこの高校だ」
「少し位話に付き合ってくれよ。あんな汚い言葉に立ち止まってくれってことは、それなりに何か似かよった考えがあるんだろ」
「ない」
生憎だが、あんな考えに近い思いなど無い。……と言うか、考える事すら嫌である。というか、死にたいのかもしれない……。
「そうなんだ。じゃあ、あんたの考えは言わなくていい。聞くだけ聞いてくれ。それとも、友達同士でやる卒業祝いの会場に向かう途中か?」
「何で卒業式の帰りだってわかったんだ」
少しばかりハッとして相手の質問にさえ答えずに聞いていた。
「コサージュが胸についてるからさ。その顔色じゃ会場に行く途中じゃないんだな」
「ん、あぁ……」
そんなもの無縁だ。
「別に青褪めた顔とかはしてないから気にする事ないさ。……そう、比喩……みたいな表現のつもりさ。今にも死にたいって顔に書いてあるような顔つきだからさ、つい言葉になっちまった」
俺は頬を触っていた。そしてまたハッとする。
「お前誰なんだ……?」
「次から次へと質問が出てくるなぁ……。因みに何で今日が卒業式か分かったか、についてもっと言わせてもらうと、あんたって人がこんな人だからだ」
「はっ?」
「あんたは、そうだな……真面目な人間でそれなりにこだわりがある人間だ。いや、こだわりと言うより……意地、と言うべきかそれとも自分ルールとでも言おうか……。まぁ、細かい事は気にしない。でもあんたはチャラチャラした事が嫌いで馬鹿騒ぎには入っていけない。でも心のどこかではそれが孤独だとわかっていて、寂しいと感じている。自分に厳しくしたいが甘えが先行して邪魔をして何かに頼っている自分を女々しいと感じて嫌っているが嫌い切れず可愛がっている。でもやっぱり厳しくしたい。………………そんなあんたは学校を抜け出したりはしない。違うかい?」
「い、いや……きっと間違っていないと思う…………」
自分でさえ分からない曇っていた自分が見えた気がしてびっくりした。何も言えない。どんな素っ頓狂な顔をしていた事か……。
「そりゃどうも。いつまでも疑った顔なんてしないでくれよ。このまま変な宗教の布教なんてしないし、あんたに面倒事なんて被せたりしねぇって」
「そんな顔してたか?」
今の俺には自分の事など何一つ分からない。制御さえままならない。
「してたしてた。あんたにゃ彼女とか仲のいい友達なんてのはいないのか?」
「生憎、持ち合わせてないね。どれも品切れだ。……ってか入荷すらする予定はない」
「はっはっは。面白い表現だ! でもそれは何でだい? こんな面白い事の言えるあんたなら友達くらい宝箱から溢れるくらいつくれるだろ?」
明るい奴だな。嫌いじゃないが今のテンションでは俺とあんたじゃレーシングカーと自転車くらいの違いがある。
「自転車でも本気でこいだらなかなか速くなるよ? 君だってルックスならクラスでも上の筈だろ?」
「俺の待っている箱は宝箱じゃなくてパンドラの箱なのさ。何で俺のクラスの事まで分かるんだよ」
怪しくは感じないのが不思議でしょうがない。
「パンドラの箱……か。つまり君が手にした箱には罪が入っているってことかい?」
「…………分からない……でも、俺には罪がある。数えきれないくらいの」
「……………………まぁ、罪なんてものは誰でも持ち合わせてる事だし、深くないか深いかの違いだけさ。あんたみたいな人間が罪深いとは思えないな。それにパンドラは女性だし」
俺は目の前に見えているものが本当に人間なのか疑わしくなってきた。ってかここがどこなのか分からない。
「じゃあ俺はプロメテウスかもな」
というか、もともとパンドラには大した罪は無いようにも思える。
「ほう? それはどういう意味?」
「あいつも罪深い奴だろ。の前に何をしたか知ってるか?」
神話は好きだ。フィクションでありながらヤケに現実味があったりモノの起源は大抵神話であったりするものだ。それに、その場から消えてなくなることは絶対ない。
「父であるゼウスから『火』を奪って神の形を模した姿を持つ『人間』に与えたとか……。でもあんたは誰かから何かを奪っちゃいないし、第一罰は受けていないじゃないか。それにプロメテウスの話はある意味では罪にもならないし」
それはごもっとも……。
「ってか、いつの間にか俺の話になってるし」
「そうだな。少し話を巻き戻すか、好きな人はいないの?」
「………………………………………………。………………………………………………………………………………」
「わかった。わかったからそんな顔すんな」
「いない訳じゃない…………。でも高校入試の時以来会ってないし、メールのアドレスも知らない。第一、こんな俺が好かれる筈がない」
「ずいぶんなマイナス思考ぶりだな。尊敬するよ」
されたくない。
「…………」
「で?」
「『で?』って何だ?」
「その時点でもうアウトなのかってこと。他に好きな人が出来るかもしれないだろ?」
「いや、それはない。アイツ以外はなれそうにない」
「おぉ、一途かぁ。それで? あんたさんの中では今が楽しくないんだろ? どうすれば楽しくなる?」
「どうすればって……」
「神のような異能の力が欲しいのか? それとも、死んでみる?」
その目に含まれた力にゾッとした。黒く深く呑まれてしまえば出れそうにはない。そんな目だった。
「神の力があれば世界は面白くなるかね………………」
「少なくとも、人の注目は浴びるだろうね」
「手に入れたとしても公にするつもりはない」
この時はすでにこいつの顔は笑顔になっていて、ケロリとしていた。
「そりゃまた何で? てっきり友達がいなくて毎日がつまらないんだと思ってたんだけど」
「ヤケに俺の事に詳しいくせに分からないこともあるんだな」
そう、友達がいないことは否定しない。そのせいでつまらなく感じている、これも否定はしない。しかし異能の力で目立って俺の周りに人が集まって来たとしても、それは俺の友達ではない。
「蝿の集まってくる腐ったモンにはなりたくねぇ、ってことだ」
「…………………………面白いよホント。じゃ今欲しいものって何?」
「割にあった職とさっき言ったメアドも知らない片思いの人が一番近くにいてくれればいいかな……」
「自分で自分を否定したり肯定したり不思議な人間だな、あんたは」
少し呆れたように、そして何んとなくどことなく楽しんでいるような面持ちで言ってくる。え~と…………。
「オレは夢魔だよ」
「ムマ? どんな字を書くんだ?」
「そのまんま。夢の悪魔って書きゃいいんだよ」
何の冗談か、さっぱり分からなかった。夢魔? いくらなんでもふざけ過ぎだろ。そんな事を思っていると向こうから話を切り開いてきた。
「あんたが思い描いている夢魔がどんなモンかは知らないが大体の予想はつく、俺はその神話に出てくるような夢魔じゃない。そう言った方が分かりやすかったからそう言っただけだ。単刀直入に言うと、あんたは死んだ。それで俺は黄泉の国水先案内人」
「はっ?」
頭大丈夫かこいつ。話が出口の無い迷路に迷い込んでいる。
「いや、正しくは死んじゃいないな。瀕死?」
「待て待て、何言ってんだ? 俺はピンピンしてるぞ? 目の前にいる奴を瀕死だなんて笑えないジョークだぞ」
「なら笑わなきゃいいさ。そいつはジョークなんかじゃない。リアルさ」
顔では笑っているが目はさっきの目をしている。黒い目。
「だから俺はお前の目の前で元気にしてるじゃねぇか!」
「気付けない人は気付けないんだよねぇ。オレの前にいるのは……お前ら人間の言葉で言うなら、そうだな…………何て言えば言えばいいんだっけ。……そう、魂だけ! みたいな? 本当はさっきこの橋の上でトラックにはねられてるんだよ」
「じゃあ俺の肉体はどこにあるんだよ」
こんな頓珍漢な奴だとは……。と言いつつ俺は話に乗っている。
「理解が早いと助かるね。私立病院の検査室。三分前に搬送された。骨折、打撲等々は一切なし。でも意識不明ってことになってる」
『ってことになってる』?
「誰の考えた台本だ」
「さぁね、中には運命がどうのこうのって言う奴もいるが、わざわざあんたらみたいな人間の一生を神様だって管理はしないさ。サイコロを振って選択肢を決めるような奴らの事など気にも留めない」
何だ?この違和感は……。胸の奥の中に溜まっていく変な感触は……。
「俺は最終的にどうなる。死ぬのか」
「いんや。死にはしない。ってことになってる」
誰がそうしたんだよ!
「さぁ……さっぱりだ。なんとも言いようもない感覚で頭ん中に直接情報が入ってくるんだ。因みにもうちょいしたら今俺の目の前にいるあんたは意識を失う。そして次気付いた時には408号室の個部屋で目を覚ます」
本当に頭大丈夫かこいつ。
「もぉ少しっていつだよ」
「5秒前!、4!、3!」
こんな遊びに付き合ってられるか。帰ろう。
「2!、1!………………0」
「っ!!」
御視読ありがとう御座いましたーw