飼い主が婚約破棄されたので、三年の恩を返そうかにゃと。
「婚約破棄だ!」
醜悪な人間が主人にそう言った。
――婚約破棄、それくらいは知っている。 こいつと主人が結婚しなくていいということだ。
私は本棚から飛び降りた。飛び降りた先にあの醜悪な人間がいたが、今はそんなことどうでもいい。
今日はあの男が屋敷に来ているのだ。
「にゃあ」
主人に向かって一鳴。三年の恩を返す時が来たようだ。
*******
――吾輩は猫である。名前はまだない。
遠い昔に読んだような気がする本の書き出しだ。読んだと言っても冒頭数行と最後をサラッと読んでこんな話かとつまみ食いしたようなものだ。猫の一生、きっとそんな話であったはずだ。
――私は今、猫である。前世の名は忘れた。あー、……多分、佐藤。
こんなことになって、あのときちゃんと読んでおけばよかったと後悔している。もう少し真面目に国語教師の雑談を聞いておくべきだった、せめてなんであの猫が水がめに落ちて死ぬ羽目になったのかくらいは記憶しておいてほしかったなどと生前の自分に恨み節を並べ立てる。
しかし、考えるだけというのも腹が減る。私は窓際の定位置から降りると、主人のもとへ行く。
プラチナブロンドに青い瞳の美しい少女、これが私の主人。
「あら、アレクサンドロス。おなかがすいたの?」
仰々しい上に男の名だがこれが今の私の名前だ。生前の名前はちゃんと覚えてはいないが、もう少し簡単な名前だったと思う。
三年前、生まれたばかりの子猫だった私を拾い上げ楽しそうに世話をしていた。言い方が他人事なのはそのころの意識があいまいでどこか外から見ていたような記憶だからだ。
「みゃお」
カタリナには人がたくさん仕えている。一鳴すれば、その人たちの手によって私の前にはごはんが現れる。
「おいしい?」
ご飯を食べている私にそう言って笑うカタリナ。もう一鳴してやればカタリナの顔もほころんだ。
猫ながら優雅に食事をとる私とそれを見守る美しい主人。カタリナのメイドも微笑まし気にそれを見守っている。
そのとき乱暴にドアを開く音が響いた。
「カタリナ。来てやったぞ」
「……ジョアキン様。いらっしゃるときは先ぶれを」
「はぁ? 俺との仲でそんなこと言うのかよ」
「……次からは気を付けてください」
「おぉ、覚えてたらな」
伯爵家の令嬢であるカタリナには婚約者がいる。私とカタリナの穏やかな時間に水を差した醜悪な人間。カタリナの美しさに釣り合わないこの男がカタリナの婚約者だ。あれこれと無理難題をカタリナに投げつけ、気に入らないことはわめき散らしてなんとかしようとする。カタリナが困っているのすらも理解しないし、何かしてもらっても恩を感じることもない。礼を言うどころか文句をつけてくる。
猫は三年の恩を三日で忘れるというが、恩を感じる分こいつよりもマシである。
「これやっといて」
カタリナにろくな挨拶もせずに紙の束を押し付ける男。こいつはこうやって自分のできないことをカタリナにやらせようとする。しかし、カタリナが完璧にこなすとそれはそれで気に食わないらしい。
「ジョアキン様、これは私には手に余りますわ」
「はぁ? やれって言ったらやるんだよ」
カタリナはなんでこんな男と結婚しようとしているのかほとほと謎だが、この男、軍隊かなんかにいて実家の権力とやらは抜群にあるらしい。
「姉さん。あいつ今度は何をやれって?」
ジョアキンが帰った後、カタリナの弟、カルロスが心配そうに入ってきた。
「いつも通り彼の仕事よ」
「全部引き受けたの」
「軍の機密事項になりそうなものは、断ったわ」
「でも、それ以外のことは全部引き受けたんだろ? もうやめようよ」
「私は大丈夫よ。これくらいできるから」
「……姉さん、何があっても僕らは姉さんに味方するってことは覚えていてね」
「えぇ、ありがとう」
心配したカタリナの弟や両親がよくこうやってカタリナに婚約をやめようと言っているが、カタリナは断っているのだ。
今、この男との婚約がなくなるとこれから先、カタリナの結婚は難しいらしい。
しかし、それはカタリナの思い込みだと思う。カタリナはこのジョアキンとかいうクソ男に罵倒され続けているうちに少し考え方が変になっているようだ。
こんな醜悪な人間よりもカタリナに合う人間がいるはずだ。というか、もうカタリナは出会っている。この屋敷に時折現れる男だ。カルロスの友人だ。
よく弟を尋ねてやってくるが、カタリナと二人で会ったことはない。
しかし、私とは時々会っている。そしてカタリナの猫であることを知っているようで、あれこれ質問してくるのだ。
私が、ピンクの花の近くで昼寝をしていれば、「君のカタリナもこの花が好きなのか?」
私が青い蝶を追いかけていれば「カタリナ嬢は青色が好きか?」
あぁ、うるさい。本人に聞いてくれ。まぁ、婚約者のいるカタリナに直接声をかけられないというのは理解してやってもいい。わきまえている人間は好感度が高いぞ。今のところ私にだけだが。
「アルフォンス、君はいつもアレクに声をかけるね」
私を追いかけまわす友人を見てカタリナの弟が笑っている。その目の奥に別の意図があることくらい猫の私でもお見通しだ。
「だって、とてもかわいいじゃないか」
「あぁ、そうかい。今日は何を聞いたのかな」
「ん? 君のカタリナはどんな香りが好きなのかなって」
「……答えてくれたかい?」
弟がげんなりとした顔を隠すことなくさらしている。
期待しているところ悪いが、そもそも私にキューピット役などできない。猫だからというわけではない。人間の姿でもできなかっただろう。なぜなら前世に恋人などいなかったからな。生前の自分への恨み節に恋愛小説だけでもしっかり読んでおけというのも追加しておこう。
*******
そんなこんなで、日々謎の板挟みを受けていた私だが、やっと事態が動いた。
怒り狂ったジョアキンが屋敷に怒鳴り込んできたのだ。
「こないだのやつ、なんでやらなかった」
「何度も申し上げたはずです。あれは国防にもかかわる書類。私の目に触れたことがわかれば処罰されるのはジョアキン様であると」
「うるさい! バレないようにすればいいだろう!?」
「私に不正を働けと?」
カタリナの言葉に、ジョアキンは顔を真っ赤にして叫ぶ。ひとしきり周りを威圧したらすっきりしたのか頭を乱暴にかきむしり大きくため息をついた。
「はぁ、お前、本当に使えないな……おかげで俺は恥をかいた」
「これが使えないというのであれば、それでいいですわ」
「いいのか。俺にそんな口をきいて。婚約を破棄するぞ」
嫌な目つきをしながら脅しのように言ってくるジョアキン。いつもならカタリナはここで謝っているが、今日は少し顔つきが違う。
「えぇ、そうしましょう」
「は?」
「ですから、婚約破棄しましょうと」
「お前、本気で言ってるのか。俺に婚約破棄されたらお前みたいな無能の嫁ぎ先なんてないぞ」
急に焦りだすジョアキン。それと対照的にカタリナの顔はどんどん冷静さを取り戻しているように見える。
「今後も不正の片棒を担がされるくらいなら、一生独身でもいいですわ。幸い、カルロスは優秀ですし、彼と家業を手伝いながら生きていくのも悪くないでしょう。……それとも、私が結婚して差し上げないと、あなたが嫁に困るのかしら?」
カタリナがそう言うと、ジョアキンの顔がまた真っ赤になる。
「そんなわけあるか! あぁ、わかった! 婚約破棄だ!」
ジョアキンが叫んだ。ついにこの日が来たのだ。
私は本棚から飛び降りる。飛び降りた先にたまたま醜悪な人間がいた。なかなかに踏みがいのある頭だったので、踏み台にしてもう一度ジャンプ、カタリナの足元に着地。ジョアキンが呻きながらのたうち回っているが、今はそんなことどうでもいい。
今日はあの男が屋敷に来ているのだ。
「にゃあ」
カタリナに向かって一鳴。カタリナは不思議そうに私を見た。
何度も鳴きながら、繰り返し彼女の周りをまわる。なにかあるのかと、カタリナも私の後をついてきてくれた。悪人を捨て置くのは気分がいい。
行き着いた先はカタリナの弟、カルロスがよくいる図書室。カタリナのそばを離れ、図書室の中に入る。
案の定、カルロスと一緒にあの男、アルフォンソもいた。
私は小さく鳴いて、男の周りをくるりと回る。
「え、あれ? お前は……」
「アレクサンドロス? どうしたの?」
困惑するアルフォンソと、カタリナの声が混ざる。
私は一鳴きしてカルロスの方を見た。カルロスは二人と私を順番に見て小さく笑うと、私を抱えて図書室を出ていった。
相変わらず良くわかっている。
「アレクもじれったくなっちゃったのか?」
そんなことを言うカルロスの腕に抱かれて、私は大きくあくびをする。
3年の恩、気まぐれサービスもつけて、すこーし手助けをしてあげようと思っただけだ。
ただ、あとはアルフォンソしだい、カタリナしだい、というやつである。
読んでいただきありがとうございました。
感想、評価、ブクマ、スタンプ励みになります!




