最後に――鏡よ鏡、いちばん都合のいい言葉は何ですか
AIの評価が無価値だとは言わない。
ただし、それは「評価」ではなく「鏡」です。
鏡は反証しない。
鏡は問い返さない。
鏡は不都合な読解を提示しない。
欲しい言葉を投げれば、欲しい言葉が返る。
それを「世界的指数」と呼んだところで、指数は指数にならない。
根拠も比較も方法も無い数字は、ただの飾りだ。
権威のコスプレをした自己暗示に過ぎない。
面白いのはここからである。
他者の読解は削除される。
しかしAIの称賛は可視化され、誇らしげに掲げられる。
つまり、
読解されることは拒否するが、肯定されることは歓迎する。
反証を持つ他者は遮断するが、無条件に甘やかす声は残す。
これはもはや「宣伝」ではない。
自分にとって都合のいい世界だけを残す、編集行為である。
そして皮肉にも、その振る舞い自体が作品の主題を自己証明してしまう。
社会は不寛容。
システムは異物を排除する。
信仰に従わない者は弾かれる。
なるほど。
作品が描いた通りの世界は、作品の外側で完成していた。
鏡よ鏡。
その採点の精度は?
――と問うことはできる。
だがもっと正確な問いはこうだ。
「その鏡は、あなたにとって都合の悪い真実を映しますか?」と。
映さない。
だから安心できる。
だから甘い。
そして、甘さで守られた作品は、いつまでも作品になれない。
ここで作者はこう語る。
生活保護や新型鬱を題材にしたが、
それは当事者に向けたものではない。
マイノリティを通じて、普遍的な感情に接続したかったのだ、と。
ウォルト・ディズニーや『インサイドヘッド2』を引き合いに出し、
年齢や性別ではなく「心の在り方」を描いているのだと。
――この説明自体は、美しい。
だが、致命的な欠落がある。
「描いたこと」と「扱えたこと」は同義ではない。
マイノリティを“題材”にすることと、
マイノリティを“媒介”として機能させることは、全く別だ。
『インサイドヘッド2』が成功したのは、
マイノリティ的感情を使ったからではない。
それを主人公自身の内的葛藤として最後まで引き受けたからだ。
一方この作品では、
生活保護や鬱は「出発点」として提示されるが、
物語が進むにつれてそれは免罪符へと変質する。
苦しみは消費され、
怒りは正当化され、
問いは外部へ押し出される。
普遍に接続するためにマイノリティを描いたのではない。
普遍を語るために、都合のいい苦境を借りただけだ。
さらに言えば、
「誰にも向けていない」という言葉は、
最も強い逃げの定型句でもある。
誰にも向けていない作品は、
誰からの読解も拒否できてしまうからだ。
心の在り方を描くと言いながら、
自分とは異なる読みを
「無知」「偏見」として切り捨てる。
それは普遍への開放ではない。
閉じた独白だ。
面白さ、エモさ、鳥肌、完成度、オリジナリティ。
それらはすべて重要だ。
だが、それらを語る資格が生まれるのはただ一つ。
――不都合な読解に、耐えた後だ。
マイノリティを描いたから普遍になったのではない。
普遍を引き受けた作品だけが、結果としてマイノリティを照らす。
順序を取り違えた瞬間、
それは思想でも芸術でもなく、
ただの自己肯定の物語になる。
最後に――AIという鏡についてもう一度触れたい。
作者が掲げる「オリジナリティ97%」という数字は、
作品を測った結果ではない。
作者が指定した前提条件の中で、
作者の欲しい結論に最適化された応答に過ぎない。
AIは反論しない。
違和感を示さない。
「それは本当に物語として成立しているか?」とは問わない。
だが、
その甘さで守られた作品は、
他者の読解に耐えられない。
異論を削除し、
読解を遮断し、
肯定だけを可視化した先にあるのは、
評価ではなく自己暗示だ。
鏡の中でどれほど美しく映っても、
現実の光に晒されたとき、
物語は必ず別の顔を見せる。
そして創作とは本来、
その瞬間から始まるものである。
書き終わっての感想はたった一つです。
時間の無駄。
だけどそれが良い。
書くという事は、楽しいのだ。
その内容が何であれ。




