第51話 触れる前
報告が終わったあと、部屋にはしばらく静寂が残った。
灯りは落ち着いた明るさのまま、外からの音も遮断されている。
だが、静かなのは環境だけで、空気そのものは張りつめていた。
セナは立ったまま、悠人の反応を待っている。
腕を組むことも、視線を逸らすこともしない。
急かす気はなかった。
こういう時、彼は必ず自分の中で状況を組み直す。
感情ではなく、情報を一度すべて解体してから結論を出す癖だ。
悠人は、机の上に広げられた地図から視線を外していなかった。
指先で、ある一点をゆっくりとなぞる。
消失が確認された地点。
その周囲に引かれた、いくつもの小さな印。
そこから、さらに外へ。
そして、内側へ。
「……円卓は?」
短い問いだった。
前置きも、感想もない。
「正式に依頼を出すことで、話はまとまった」
セナは淡々と答える。
事実だけを切り出す声だ。
「名目は調査協力」
「被害拡大の抑止と、原因の特定」
「便利な言い方だ」
悠人は、地図から目を離さないまま鼻で笑った。
「責任は曖昧」
「成果だけは欲しい」
皮肉とも取れる言葉だったが、
そこに感情は混じっていない。
セナも否定しなかった。
それが円卓という組織の常套手段だと、二人とも知っている。
「条件は?」
淡々と、次の確認。
「行動の裁量は全部こっち」
「指揮権への介入もなし」
「ふうん」
その一言と共に、悠人はようやく視線を上げた。
一見すると興味がなさそうに見える。
だが、その目はもう、地図のさらに向こう――
まだ線すら引かれていない場所を見据えていた。
「……随分と、譲ったな」
「追い詰められてる」
セナは迷いなく言い切った。
「これ以上被害が出たら」
「何もしてない、じゃ通らなくなる」
「だから、俺たちを選んだ」
悠人は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「自分たちでは境界を越えない」
「でも、誰かが越える必要はある」
小さく、付け加える。
「いつも通りだ」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
セナは一歩、机に近づいた。
声音は変えず、ただ事実だけを重ねる。
「危険だよ」
感情ではない。
警告ですらない。
「魔力反応がない」
「干渉の痕跡も確認されてない」
「それでも、“見られてる”って証言だけは一致してる」
「うん」
悠人はあっさりと頷いた。
「だから、無視できない」
その即答に、セナはわずかに眉を寄せる。
「深入りする必要はない」
「調査だけで終わらせる選択肢もある」
悠人は、すぐには答えなかった。
代わりに、机の上の紙を一枚手に取る。
円卓から届いた正式文書だ。
整った文面。
丁寧すぎるほどの言い回し。
だが、責任の所在だけは、どこにも書かれていない。
「調査、ね」
紙を元の位置に戻し、低く呟く。
「でもさ」
視線が、再び地図へ落ちる。
「これ、向こうから近づいてきてる」
断定ではない。
だが、疑いでもなかった。
「消失の範囲が、少しずつ内側に寄ってる」
「偶然じゃない」
セナは反論しない。
彼女自身も、同じ違和感を抱いていた。
「――だから」
悠人は、静かに立ち上がった。
「行く」
短く、はっきりと。
「依頼は受ける」
「ただし、円卓の想定通りには動かない」
「分かってる」
「情報も、全部は渡さない」
「必要だと思った分だけだ」
「了解」
セナは、小さく頷いた。
悠人は装備棚に目をやり、
いつもの外套を手に取る。
特別な準備はない。
大げさな決意もない。
まるで、いつもの依頼に向かうかのような自然な動作。
だが――
「セナ」
出ていく直前、悠人が足を止めた。
「向こうが、まだ境界を越えてこない理由」
「何だと思う?」
セナは、ほんの少し考える。
「……様子見、だと思う」
「俺も同じだ」
悠人は、ほんのわずかに笑った。
「だから」
ドアに手をかけながら言う。
「先に、越える」
軽い口調。
だが、その一言の意味を、セナは理解していた。
これは、円卓のためじゃない。
世界のためでもない。
ただ――
彼自身が、確かめるための行動だ。
ドアが閉まる。
部屋には、静けさだけが残った。
均衡の内側からでは届かない場所へ。
均衡の外側にいる者が、歩き出した。
その意味を、
まだ誰も正確には知らない。
だが確かに――
歯車は、回り始めていた。




