第50話 報告
ブラックツリーの拠点は、いつも通り静かだった。
廊下に足音は響かない。
談笑も、雑談もない。
誰かが慌ただしく走る気配もない。
だがそれは、平穏とは少し違う。
不要な音を排除し、
必要なやり取りだけが残された結果の静けさ。
ここでは、沈黙すら機能の一部だった。
奥の部屋。
分厚い木製の扉の向こう。
机に向かっていた悠人は、紙の上を走らせていたペンを止めることなく、扉の向こうの気配にわずかに意識を向けた。
足音は小さい。
だが、隠す気のない歩き方。
数秒後、扉が開く。
「戻ったか」
振り返らずに言う。
「うん」
セナは短く答え、自然な動作で部屋に入り、向かいの椅子に腰を下ろした。
挨拶も、形式ばった報告姿勢もない。
書類を差し出すこともない。
ここでは、それらは不要だった。
必要なのは、情報だけ。
そして、それをどう扱うかという判断だけだ。
悠人はようやくペンを置く。
インクが紙に染み込むのを数秒見つめてから、視線を上げた。
「円卓が動いた」
セナは前置きを省き、核心だけを告げる。
「そうか」
興味がなさそうな返事だった。
だが、その瞬間。
机の上で回していたペンが止まる。
意識は完全に切り替わっていた。
「セントラル近郊」
「防衛線の外縁で異常」
悠人は何も言わない。
続きを待つだけだ。
「夜明け前」
「哨戒部隊が接触していた魔物の群れが消えた」
セナの声は一定だった。
報告として整えられている。
「交戦は成立してた」
「途中まで」
その言葉に、
悠人の指先が、ほんのわずかに止まる。
「途中まで、か」
短く繰り返す。
セナは頷く。
「地面は荒れてる」
「衝突跡も、衝撃で裂けた地層も残ってる」
「血もある」
「爪痕も、武器の損傷も確認されてる」
一拍置いて。
「でも」
淡々と続ける。
「戦闘痕が、途中で切れてる」
部屋の空気が、わずかに沈む。
「討伐でも撤退でもない」
「“存在してた途中まで”が残ってる」
悠人は椅子にもたれた。
背もたれが軋む音が、静かな部屋に小さく響く。
天井を見るでもなく、
視線は宙に漂ったままだ。
だが、その沈黙は思考ではない。
どこかで、既視感を確かめている。
そんな種類の間だった。
「他には?」
「後続の索敵部隊でも同じ現象」
「視線を感じた直後、兵が一人消えた」
「消えた?」
「痕跡ごと」
セナは言葉を選ばない。
「魔力反応なし」
「転移兆候なし」
「外部干渉の痕跡も検出されてない」
静かな部屋に、
短く息を吐く音だけが落ちた。
悠人だった。
「……随分、露骨だな」
低く呟く。
「防衛線はこのままだと、維持できない」
「人が消えるなら、配置そのものが崩れる」
セナは冷静に分析を続ける。
「兵站も連鎖的に破綻する」
「警備の穴は交易路にも影響が出る」
「経済にも影響が出始めるな」
悠人は口元だけで笑う。
乾いた笑みだった。
「なるほど」
「隠す気、なくなってきたか」
セナは、わずかに視線を上げる。
「カミの線は?」
「否定材料はない」
即答だった。
「旧記録と一致してる」
「“見られてた”って証言も揃ってる」
悠人は黙る。
言葉を探しているわけではない。
情報を照合しているわけでもない。
ただ――
既に知っている何かと、
今起きている事象を重ねている。
そんな沈黙だった。
「円卓は?」
ようやく口を開く。
「世界規模で動くしかない、って結論」
「でも現実的じゃない」
セナは即答する。
「セントラルを嫌ってる国が多い」
「共同戦線は成立しない」
「利害がぶつかる」
「指揮系統も統一できない」
「時間をかければ」
「その分、被害が広がる」
悠人はゆっくりと立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「で」
「依頼ってわけか」
「建前はブラックツリー」
「でも実際に自由に動けるのは、悠人だけ」
一瞬。
空気が張り詰める。
悠人の視線が、わずかに鋭くなった。
「断れる?」
「断れる」
「でも、代わりはいない」
間を置かず返される答え。
「……だろうな」
悠人は窓の外を見る。
遠く。
街並みの向こう。
セントラルの方角。
「カミ…か」
呟きは小さい。
だが、その言葉は軽くなかった。
「最近」
悠人は続ける。
「やけに近いな」
セナは肩をわずかに傾ける。
「前から、じゃない?」
「前は」
悠人は静かに首を振る。
「ここまで“分かりやすく”なかった」
それ以上、理由は語らない。
だが、セナには十分だった。
悠人が感じている距離感。
それは単なる物理的なものではない。
何かが、意図的に近づいてきている。
「準備しといて」
悠人は机に手を置きながら言う。
「場所」
「消えた順番」
「時間のズレ」
「情報は全部欲しい」
「了解」
セナは立ち上がる。
椅子を引く音すら最小限だった。
「……また、面倒事?」
振り返りながら、軽く言う。
「そうだな」
悠人は、ほんの一瞬だけ笑った。
疲労も、諦めもない。
ただ、事実を認めるだけの笑み。
「でも」
「逃す気はない」
それ以上は語らない。
使命でもない。
義務でもない。
円卓のためでもない。
世界のためですらない。
ただ――
“そこにあるなら、確かめる”
それだけの温度。
窓の外では、
まだ穏やかな日常が続いている。
だが、その均衡の外側で。
悠人は、静かに動き始めていた。




