第48話 痕跡だけが残る
異変が起きたのは、夜明け前だった。
空が白み始めるよりも少し早い。
夜と朝の境目。
最も警戒が緩みやすく、そして――
何かが起きても、気づくのが遅れる時間帯。
見張りが違和感を覚えた時には、
すでに“終わった後”だった。
「……いない?」
声を落として、確認する。
問いかけというより、現実をなぞるための言葉だった。
返事はない。
そこにいたはずの魔物の群れ。
数は多くない。
だが、哨戒記録にも、索敵結果にも、確かに残っている。
――存在していた。
それが、今はない。
地面には、踏み荒らされた跡がある。
複数の足跡が重なり、
方向も、深さも、ばらばらだ。
爪痕。
引き裂かれた土。
乾ききらない血痕。
戦闘があったこと自体は、否定できない。
だが――
「戦闘の痕が、途中で途切れてる」
現地指揮官が、低く言った。
感情を抑えた声だったが、
その分、違和感がはっきりと滲む。
逃げた形跡ではない。
討伐された様子でもない。
倒れ伏した死体も、
消え去るための痕跡もない。
あるのは、
“途中まで存在していた現実”だけ。
それが、
ある一点から先だけ、
きれいに削り取られている。
「索敵、もう一度」
短く、命令が飛ぶ。
兵たちは即座に動く。
魔力感知。
結界反応。
痕跡追跡。
慣れた手順。
これまで、数え切れないほど繰り返してきた対応。
だが――
「……反応、なし」
全員が、同じ結果を返した。
沈黙が落ちる。
誰もが口を閉ざし、
足元と、周囲と、
そして、互いの顔を見比べる。
誰かが、無意識に空を見上げた。
だが、そこには何もない。
雲も、光も、歪みもない。
魔力の揺らぎも、
視界を乱す異常もない。
あまりにも、普通の空だった。
「……消えた、のか?」
誰かが、耐えきれずに言った。
だが、その言葉が発せられた瞬間、
全員が理解していた。
――違う。
消失という言葉では、
軽すぎる。
説明しようとした瞬間に、
意味がすり抜けていく。
その時だった。
「――見られてる」
後方にいた兵が、
掠れた声で言った。
一瞬、何を言われたのか分からない。
だが、その声色が、
全員を即座に振り向かせた。
「何が見える」
問いかけは、冷静だった。
「何も……見えません」
返答も、正確だった。
だが。
彼の視線は、
一点に固定されていた。
空気の、何もない場所。
触れれば、すり抜けるだけの空間。
それでも。
「……確かに、そこに」
言葉が続かない。
喉が、音を拒んでいる。
指先が、わずかに震えた。
次の瞬間。
何かが、抜けた。
音はない。
風も、衝撃もない。
ただ、
そこに立っていた兵の一人が、
最初から存在しなかったかのように消えた。
「――っ!」
誰かが声を上げる前に、
場は凍りついた。
悲鳴すら、間に合わない。
魔力反応、ゼロ。
転移兆候、なし。
外部干渉の痕跡も、検出されない。
残ったのは。
足跡と、
地面に落ちた武器だけ。
つい数秒前まで、
“人だったもの”の痕跡。
「……撤退だ」
指揮官が、絞り出すように言った。
反論は出なかった。
この場に留まる理由が、
一つも見つからなかったからだ。
その後。
提出された報告書には、
簡潔な文章だけが並んだ。
――敵性存在、未確認。
――交戦、成立せず。
――消失事象、再発。
そして最後に、
補足として、こう付け加えられている。
“視線を向けた瞬間、
世界の輪郭がずれた気がした”
円卓に届くのは、
その文章だけだ。
だが、
それを読んだ者たちは知っている。
これは、偶然ではない。
そして――
“まだ触れていない”だけだと。




