第1話 それは”カミ”と呼ばれていた
次の瞬間、私の右腕が――消えていた。
痛みは、ない。
血の感触も、熱も感じない。
ただ、理解だけが追いつかなかった。
視線を落とす。
地面に転がるそれが、かつて自分の腕だったと認識するまで、数秒を要した。
――ああ、私は今、
取り返しのつかない“何か”に遭遇したのだ。
焚き火の音だけが、新大陸の夜に溶けていた。
この大陸では、
死は唐突で、理由を選ばない。
一瞬の油断が命取りになり、
一歩踏み違えれば、二度と帰れない。
――それでも、人はここへ来る。
ここは新大陸。
魔獣が跋扈し、奥へ進むほど死が近づく土地。
私――エリシアは、野営をしていた。
もともと、これ以上進むつもりはなかった。
すでに戦闘は限界に近く、このまま奥へ踏み込めば命を落とす。
自分の強さでは、もう太刀打ちできない。
だから、引き返す。
そう判断した、その夜だった。
ぞくり、と背筋を撫でる感覚。
魔獣ではない。
人でもない。
それなのに、確実に“何か”がいる。
新大陸の闇の奥。
輪郭の曖昧な、人型のような影が立っていた。
不気味だった。
存在そのものが、空気にまとわりつくような異物感を放っている。
息をするのを忘れるほど、全身が強張る。
思い出す。
街で聞いた噂。
『突如現れる謎の存在』
『魔族ですら正体を知らない、あまりにも強い“何か”』
『異様な気配を感じたら近づくな。目を合わせるな』
『我々はそれを――カミと呼んでいる』
――これが、カミ。
理解した瞬間だった。
それは、こちらを向いた。
刹那。
衝撃。
次の瞬間、私の右腕が――消えていた。
痛みは、ない。
何が起きたのか、理解できない。
地面に転がる自分の腕を見て、ようやく事実を認識する。
……それでも、不思議なほど冷静だった。
逃げられない。
本能が、そう告げている。
これは死だ。
私は、カミを見つめ続けた。
攻撃が来る。
死ぬ。
そう思い、目を閉じた――その瞬間。
轟音。
空気が弾け、衝撃波が走る。
目を開けると、そこには――男が立っていた。
黒い外套。
背中越しに見えるその姿は、信じられないことに
魔力障壁で、カミの攻撃を受け止めていた。
高度な術式ではない。
陣魔法でもない。
誰もが使える、基礎中の基礎。
ただの防御魔法。
二撃、三撃。
凄まじい衝撃が叩きつけられる。
それでも男は、一歩も動かない。
――あり得ない。
あんな存在と対等に戦っているなんて。
「セナ。その子を頼む」
男が、淡々と言った。
「腕を治してやってくれ。治したら、この場を離れろ」
女の声が返る。
「……あなた一人じゃ、流石に倒せないでしょ」
「大丈夫。時間を稼げれば良い」
男は、まるで当然のことのように続けた。
「あいつ、本気じゃない。
本気で来られると、お前らを守れない」
意味が分からなかった。
本気じゃ、ない?
次の瞬間、私は誰かに抱え上げられていた。
「行くわよ」
女――セナに抱えられ、その場を離れる。
「待って!
あの人、死ぬわよ! あんな相手――」
「平気」
セナは即答した。
「彼がいれば、なんとかなる」
混乱する私の視界の端で、
失ったはずの右腕が――元に戻っているのが見えた。
「……え?」
再生?
そんな魔法は、この世界には存在しない。
「どうなって……?」
「うるさいわね」
セナは少し苛立ったように言う。
「寝てなさい」
意識が、闇に沈んだ。
⸻
目を覚ますと、見知らぬ天井だった。
コンコン、とノック。
セナが入ってくる。
「目、覚めた? 体調は?」
「……大丈夫」
ハーブティーを飲みながら、頭を整理する。
「あなたたちは、誰?
……なぜ、助けたの?」
「私はセナ。
助けた彼は――悠人」
悠人。
「助けた理由? たまたまよ。
旅の途中で通りかかっただけ」
嘘ではないと、直感で分かった。
再びノック。
扉が開き、悠人が入ってくる。
「大丈夫か?」
淡々とした声。
「俺たちは依頼で北に向かってたんだ。
まさか、あんな場所にヤツがいるとはな」
助かったという実感が、ようやく湧いてきた。
「……あなたたちは、何者なの?」
「俺たちはただの旅人だよ。
一応ギルドには所属している。ブラックツリーっていうギルドだ」
その名を、私は知っていた。
王なき国セントラル。
円卓の騎士が統べる街。
その中でも、
最も得体が知れず、最も噂の絶えないギルド。
――ブラックツリー。
この出会いが、
私の運命を、そして世界の裏側を動かすことになると。
この時の私は、まだ知らなかった




