第2話 従業員(前編)
通りは、空っぽだった。
カイストは人間界に足を踏み入れ、夜の空気を吸い込んだ。
街の真ん中、空気は絶望と倦怠の味がした。最高だ。
人間界は時を経るごとに腐っていく。互いに絡まり、もがき、足場を奪い合い、痕跡を残そうとする――その臭気。地獄よりずっと愉しい。
夜は完璧な黒。星ひとつなく、街灯の黄色が濡れたアスファルトに反射していた。
しかし、そこに車輪も、雨も、ない。
通りでまだ息をしているのは――ショート・オスの店だけだった。
ドアが軋みを上げた。
「すみませ――」
カウンターの向こうの人間が言いかけた。
この人間、絶望の香りが濃い。実に興味深い。
カイストはゆったりと歩み寄った。もう一人の従業員のほうへ。
どうやら「男」と呼ばれる種類だと思われる。
見るからに退屈そうだ。
百年のあいだに人間はこうなったのか?
もう一人――女だろうか? その目は鋭く、気づいている。
カイストは視線をその「女」から離さず、男の耳もとに顔を寄せた。
忘れ去られた言語で囁く。言葉が蛇のように絡み、思考を裂く音を立てる。
男の瞳が夜そのもののように黒く染まった。
***
フェイトはまばたきをした。なぜまた床にいる?
店の床に座っていて――世界が、なんだか、何かが……。
目をこすり、見上げた。
そして、固まった。
――悪魔が立っていた。
最初は何かの錯覚かと思った。けれど、それは悪魔だった。
氷柱のような角。炎を宿す黒い瞳。笑っている――恐ろしい笑みで。
「な、なに……?」
声が綿みたいに重い。
悪魔は肉を選別するように眉を上げた。
「……まあ、使えそうだ」
声は女でもあり、男でもあり、どちらでもない。
あるいは、喋るたびに変化しているのかもしれない。
フェイトは頭を振った。世界が揺れている。焦点が合いすぎて痛い。
「……あんた、現実じゃない……」
「いや、けっこう自信あるよ。存在してるってね。まあいい、面倒な話は先に片付けよう。下を見てごらん」
――自分の下に、体があった。
自分の体。
「そろそろ状況説明が必要だと思うけど」
「君は死んだ。まあちょっとショックかもしれないけど、誰だっていつかは死ぬ。私は君が必要だったから、ちょっとだけ早めた」
「な……」
記憶が濃いシロップを泳ぐように浮かんだ。
青い光。ブライアンの目。笑う影。
そして斧。
「むしろ感謝してほしいくらいだよ。君、あんまり人生楽しんでなかったし」
「……バリスタ違いじゃない?」
カイストはポケットから書類を取り出した。古びた羊皮紙と、彼自身の目を模した眼鏡。
「フェイト・フィールド、三十歳、人間。ショート・オスに生涯の魂を譲渡し、対価としてスターダックス社に勤務の機会を得る――死または退職まで有効、か。最低賃金で魂を売るとは、実に人間らしい」
フェイトは言葉を失った。
爪が空気を裂く。光の線が走る。
――勤務開始といこうか。
***
*[次回:従業員(後編)]*




