第6章 1人目
講義室は実技場よりもずっと静かだった。
机は整然と並び、前方には大きな黒板。
壁際には補助用の術式板がいくつも立てかけられている。
ニーナは席に着き、自然と背筋を伸ばしていた。
(今日は難しそう)
そう思っていたが、不安はなかった。
前に立った教師は落ち着いた年配の女性だった。
柔らかい声と、ゆっくりとした動き。
「今日は演術の“考え方”について話します」
教室が静まる。
教師は黒板に、簡単な言葉を書いた。
演術の階級?
その横に大きく線を引く。
「よくある誤解です」
穏やかな声だったが、否定ははっきりしていた。
「演術に上級・下級といった階級はありません。強い弱い、派手地味、そういった違いはあります。ですが、それは“優劣”ではない」
教師は続ける。
「演術は並列処理によって成立します」
黒板に簡単な図を書く。
一つの円。
二つの円。
三つの円。
「どれだけ多くの演算を同時に維持できるか。どれだけ精神を分割して扱えるか」
黒板を優しく叩く。
「それが重要です」
ニーナは紙に何かを書き込む。
(並列……)
「ですが」
教師は少しだけ声を和らげた。
「複数の演術を同時に扱える人は圧倒的に少ない」
「ほとんどの人は一度に一つが限界です」
教室の空気が少し緩む。
「できなくても、恥じることではありません。むしろ、それが普通です」
ニーナも胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「さらに言えば」
教師は黒板を指す。
「すべての演術が誰にでも向いているわけではありません」
炎が得意な人
氷が得意な人
水、風、雷
「組み合わせとしては相性が良く見えても、本人が苦手としている場合もあります」
ニーナは思い返す。
自分が火を出すより、浮かせる演術の方がしっくりきたことを。
「どれが得意かはやってみないと分かりません」
教師は微笑んだ。
「ですから、今日は実践はしません」
「まずは、一つ」
指を立てる。
「一つの演術を徹底的に身につける」
「寝ていてもできるくらいに。
考えなくても、自然に発動できるくらいに」
「それができて、初めて選択肢が生まれます」
教師は少し間を置いてから言った。
「複数発動を目指す道」
「一つの演術を極限まで磨く道」
「どちらが正しい、ではありません」
「自分が、どこまで扱えるか。どこに集中すべきか。それを知ることを目指しなさい」
ニーナは強く頷いた。
(焦らなくていい)
(比べなくていい)
ただ、知ること。
ただ、磨くこと。
講義が終わり、鐘が鳴る。
演術は特別な人のためのものじゃない。
才能は段階じゃなく、向きと扱い方だということ。
立ち上がりながら、ニーナは思った。
(アルスに話したいな)
────────────
ニーナが講義室を出たころ──
アルスは学園の回廊を一人で歩いていた。
高い天井。
長く続く石の床。
窓から差し込む光が規則正しく影を落としている。
(自由って言われても……)
やることがないわけじゃない。
ただ、やるべきことも分からない。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから足音がした。
「……あれ?」
聞き覚えのある声。
振り返ると、そこにいたのは――
初日に寮まで案内してくれた男の先輩だった。
穏やかな顔つき。
相変わらず、落ち着いた雰囲気。
「アルス、だよね」
「はい!」
思わず、背筋が伸びる。
「今日は一人?」
「はい。友達は講義で」
「そうか」
先輩は軽く頷いた。
「もう学園には慣れた?」
「……広いなって思ってます」
正直な感想だった。
先輩は少し笑う。
「最初はみんなそう言う。そのうち、頭の中で地図ができるさ。行き先も偏るしね」
「行き先?」
「講義、寮、研究室、食堂。人によって、自然と偏るんだ」
アルスはその言葉を頭の中で反芻した。
(居場所、ってことか)
───────────
二人で並んで歩いていると、前方に人影が見えた。
二人組の生徒。
すれ違いざま、ちらりとアルスを見る。
「……外から来たやつだろ」
「見学の」
聞こえるか聞こえないかの声。
アルスが何か言う前に、先輩が足を止めた。
「やめろ」
「ここはそういう場所じゃない」
二人は舌打ちし、何も言わずに去っていった。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
先輩は肩をすくめる。
「学園を“選ばれた場所”だと思ってる連中さ。才能があるのは事実だが、それだけじゃ足りない」
「足りない?」
「品位だ」
その言葉が妙に印象に残った。
───────────
先輩と話しながら回廊を進むと一つの扉が開く音がした。
《臨界研究室》
そう書かれた扉の中から眼鏡をかけた男が出てくる。
痩せた体。
感情の読めない目。
視線が合った。
「……新入生か」
低い声。
「は、はい」
男はアルスをじっと見つめる。
「演術は使えない」
言い当てられて、言葉に詰まる。
先輩が小さく咳払いをする。
「この人はセオ。見ての通り、研究に没頭してるんだ」
「…感情の揺れが大きい…観測に向いている」
それだけ言って、去っていく。
回廊に静けさが戻った。
「……変わった人ですね」
「はは!まあね」
先輩は苦笑する。
声を落として付け足す。
「みんなからは不気味がられてる。でも、悪い人じゃないよ。でも、ああいう人間も含めてここは学ぶ場所だ」
─────────
その後、アルス達は寮に向かっていた。
寮の裏手に続く通路で声が聞こえた。
低い声。
押し殺した笑い。
物陰の向こうで数人の生徒が誰かを囲んでいる。
「まだ、できないのか」
「何回やっても同じだな」
床に座る生徒の肩が小さく震えた。
アルスは思わず足を止める。
(これ……)
一歩、前に出かけて──先輩に止められる。
足音が近づく。
教師だ。
アルスは反射的に身を引いた。
教師の気配に気づいたのか、囲んでいた生徒たちは散っていく。
残されたのは、俯いたままの生徒一人。
「こういうのは教師に任せるのが1番だ。
ボクらが行っていたら後にエスカレートしていたかもしれない」
先輩は声を潜めて言う。
「…ここでもあるんですね」
アルスは無意識に呟いていた。
「…ああ。ただ、ここでは学ぶ姿勢と品位が重要だと思っている。ボクはうずくまるだけでなく、時には敵に立ち向かうのも品位だと思っているよ。」
アルスは少し驚いた。今までの先輩からは考えられない発言だったからだ。
────────
先輩と別れ、回廊を戻りながらアルスは思う。
親切な先輩。
露骨な嫌味。
不気味だが悪意のない研究者。
そして、見えない場所で起きていること。
(学園は、いい場所だ)
それは、確かだ。
でも──
ニーナの顔が浮かぶ。
(話そう)
今日見たことを。
感じた違和感を。
アルスは歩みを速めた。
────────
食堂は昼前のざわめきに包まれていた。
皿がぶつかる音。
椅子を引く音。
話し声が重なり合って、天井の高い空間に反響している。
アルスとニーナがトレーを持って辺りを見回していると、先に席に着いていた二人が目に入った。
「ニーナ!アルス!」
リコが手を挙げる。
その向かいにはユンが座っていた。
「合流できたね!リアナは?」
ニーナが尋ねると、リコが小さく笑う。
「今日は暇だからって、寮で寝てるって。起こしても起きないから……」
「それはそれで才能ね」
ニーナが言うとアルスも少しだけ笑った。
6人掛けの長机。
今日は四人だ。
アルスが腰を下ろしパンをちぎった、その時だった。
──隣のテーブルから、ひそひそ声が聞こえた。
「……ねえ、聞いた?」
「今朝、寮で――」
声が少し落ちる。
「人が死んでたって」
アルスの手が止まった。
ニーナもはっと顔を上げる。
「……え?」
一瞬、周囲の音が遠くなった気がした。
リコはきょとんとしている。
ユンは眉をひそめた。
「それ、本気で言ってる?」
隣の席の生徒が肩をすくめる。
「噂だけどさ」
ニーナは思わずアルスを見る。
「……そんな……」
昨日、見たばかりだ。
致命傷を防ぐ結界。
教師の言葉。
──死なせないために、正確に使う。
アルスの胸がじわりと冷える。
「学園で……?」
思わず漏れた声にユンが首を横に振った。
「ありえない」
はっきりした否定だった。
「この学園で自殺も他殺もありえない」
「でも……」
ニーナが言葉を探す。
「毒とか直接じゃなくても、やり方はあるんじゃ……」
ユンは一度、スプーンを置いた。
「順番に説明する」
落ち着いた声だった。
「まず、この学園の臨界演術。致命傷に至る攻撃に反応する」
アルスは昨日の結界を思い出す。
「演術だけじゃない。刃物や毒にもだ。毒が遅効性だとして」
ユンは即答した。
「毒は体に入った時点で“攻撃”として検知される」
「じゃあ、睡眠中とか……」
アルスが言う。
「意識がなくても関係ない。生体反応が基準だから」
ユンは淡々と続ける。
「それに病気の可能性も低い。この学園には常駐の一流医師がいる」
ユンはスープを口に運ぶ。
「急死するほどの体調なら、事前に必ず把握されてる」
テーブルに短い沈黙が落ちた。
「……じゃあ」
ニーナが恐る恐る言う。
「この噂……」
「嘘だよ」
ユンはそう結論づけた。
「誤解か、話が大きくなってるだけ。学園で人が死ぬなら。それはこの学園がひっくり返る出来事だ」
ニーナは少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。
「……そうよね」
「考えすぎか」
アルスもゆっくりと息を吐く。
(ありえない、はずだ)
理屈は、分かった。
説明も、納得できる。
でも。
隣のテーブルでは、まだ小声が続いている。
「……担架が出たって」
「医師が来てたって……」
アルスは無意識にその方向を見た。
誰も騒いでいない。
食堂は、いつも通りだ。
(もし、本当に何もなかったら)
(こんな噂、すぐ消えるはずだ)
パンを一口、噛む。
味は、分かる。
体も、落ち着いている。
それでも。
胸の奥に、昨日とは違う種類のざわめきが残っていた。
「……ねえ、ユン」
ニーナが静かに言う。
「もし、万が一」
「“ありえない”ことが起きたら……」
ユンは少しだけ考えてから答えた。
「その時は…臨界演術そのものが、問い直されるこの学園が何を守ってきたのか、ってね」
アルスはその言葉を噛みしめた。
守られているはずの場所。
死なないはずの学園。
もし、そこに“死”が入り込んだのだとしたら─
それは事故でも噂でもない。
(事件、だ)
アルスはそう思った。
──────────────
朝の回廊はいつもより静かだった。
光は同じように差し込んでいるのに、
足音が少ない。
話し声も、どこか抑えられている。
アルス、ニーナ、リコ、ユン、リアナの五人は並んで歩いていた。
リアナは眠そうな顔をしていたが、
歩き出してすぐに空気の違いに気づいたようだった。
「……なんか、静かじゃない?」
返事はなかった。
前方に人だかりが見えた。
「……何かあったのかな」
ニーナが言う。
五人は自然と足を速め、人の輪に近づいた。
ざわめき。
低い声。
視線は一点に集まっている。
人だかりの向こうで、担架が運ばれていた。
男子寮の方向からだ。
白い布がかけられている。
その形は、明らかに──人だった。
担架が段差を越えた瞬間。
力なく、腕が垂れた。
指先が揺れる。
重力に従うだけの動き。
リアナが息を呑む。
「……え?」
その瞬間だった。
布が、ほんの少しだけずれた。
ほんの一瞬。
ほんのわずかな角度。
アルスの位置からだけ、見えた。
生気のない瞳。
焦点の合っていない、濁った目。
──生きている人間の目じゃない。
アルスの呼吸が止まる。
次の瞬間、布は元に戻され、
担架は人だかりの向こうへ消えていった。
「……今の、見えた?」
ニーナが小さく言う。
アルスは首を振ることも、頷くこともできなかった。
リコは顔を青くしている。
ユンは言葉を失ったまま、担架が消えた方向を見ていた。
リアナはしばらく動けずに立ち尽くしていた。
「……」
誰も、はっきりとした言葉を口にしなかった。
──────────
場所は中庭に移る。
石のベンチ。
朝の光。
噴水の音。
けれど、空気は重かった。
リアナはベンチに座るなり、顔を伏せた。
「……やだ……」
声が震える。
リコが隣に座り、何も言わずに背中をさすっている。
「……死なないんじゃ、なかったの……?」
リアナの声は、ほとんど泣き声だった。
ユンは少し離れた位置に立ち、唇を噛みしめている。
「……ありえない……」
何度目か分からない呟き。
「臨界演術がある限り……致命傷は……」
言葉が、途中で途切れる。
ニーナは膝の上で手を握りしめていた。
「……さっきの、担架」
「見てない」
リコが首を振る。
「私、怖くて……」
リアナも何も言えずに首を横に振った。
ユンも、ゆっくりと首を振る。
「……誰も、見てない……」
アルスは、喉がひどく乾いていることに気づいた。
(見た)
確かに。
(生きてない目だった)
でも、それを言葉にしていいのか分からなかった。
ここは、
死なない学園だ。
致命傷を与えられない場所だ。
理屈は昨日聞いた。
理論も、理解したつもりだった。
それなのに──
「……」
アルスは、何も言えなかった。
ただ、胸の奥で昨日まで信じていたものが
静かに、音を立てずに崩れていくのを感じていた。
守られているはずの場所で。
壊れないはずの世界で。
それでも──
確かに“死”は運ばれていった。
そしてその事実だけが五人の間に、重く残っていた。




