第2章 まずは世界から
ヴァルドとジークの姿が柵の向こうで小さくなっていく。
完全に見えなくなるまで、
アルスとニーナはしばらくその場に立っていた。
「……これからどうしよう」
ニーナが少しだけ笑いながら言った。
不安を押し隠すような声だった。
「まあ……トラブルにならなかっただけヨシだよね」
アルスも無理に軽く言う。
そのとき、背後から明るい声がした。
「君たちだな」
声をかけてきたのは年上の男女だった。
二人とも、同じ紋章のついた上着を羽織っている。
「学園長から頼まれてね」
男性のほうが気さくに言う。
「新しく入った子の案内役さ」
「急な入学だと色々分からないでしょう」
女性のほうは穏やかに微笑んだ。
その態度があまりにも自然で、
アルスは少し拍子抜けする。
「……案内、してもらっていいんですか」
「もちろん」
「ここは広いからね」
───────────────
学園の中は歩けば歩くほど“生活”が見えてきた。
講義棟の前ではノートを抱えた生徒が集まって話している。
中庭では何人かが地面に図を書きながら議論をしていた。
「この学園では好きな講義を受けることができるんだ」
先輩の少年が説明する。
「ノウス関係の講義だけに集中してもいいし、他の講義だけにしてもいい。好きに見て回れる」
「見学だけでもいいし、途中で抜けてもいい」
「……そんな自由でいいの?」
ニーナが目を丸くする。
「いいんだよ」
少女の先輩は少し誇らしげだった。
「学びたい人が学ぶ場所だからな」
アルスはその言葉を頭の中で反芻する。
“学びたい人”。
そんな前提で作られた場所に来たのは初めてだった。
─────────────
やがて、二人は寮の前に案内された。
学園の塔ほど大きくはないが、
中からは人の気配と声がはっきり伝わってくる。
「ここが生活の拠点になる」
「基本は二人部屋」
先輩はそう言ってから、アルスの方を見る。
「ただ、急な入学で部屋が空いてなかった場合――1人部屋になることもあるんだ」
「え?」
「今回は君がそれだ」
アルスは一瞬、言葉を失った。
「いいんですか……?」
「まあ」
先輩は肩をすくめる。
「慣れるまではそのほうが楽な人もいる」
ニーナは少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん」
短い言葉で、 二人は別れた。
─────────────
ニーナが案内された部屋には
すでに一人、同じくらいの年の少女がいた。
ベッドに腰掛け、本を読んでいる。
落ち着いた雰囲気の子だった。
「あ……」
声をかけると、少女は顔を上げた。
「新しい人?」
「うん。ニーナ」
「よろしくね」
「……私はリコ」
少女はそう名乗り、少しだけ照れたように視線を落とした。
「…この時期に入ってくるなんて珍しいね」
「うん」
ニーナは正直に答える。
「……思ってたより、楽しそう」
リコは小さく笑った。
───────────
翌朝。
案内された講義棟の前でアルスとニーナは再会した。
「ちゃんと寝られた?」
「静かすぎて、逆に起きた」
「そっちは?」
「話し相手がいて助かったわ」
二人は顔を見合わせ、少し笑う。
朝の鐘が鳴る前から学園は静かに動き始めていた。
寮の廊下を歩く足音。
扉の開く音。
どこかで交わされる、眠そうな挨拶。
アルスは掲示板の前で立ち止まり、紙を見上げていた。
「……多すぎない?」
講義一覧が壁一面に貼られている。
時間、場所、担当教師。
多くは「見学自由」「途中退出可」と書かれていた。
「ほんとだね」
隣でニーナが楽しそうに言う。
「選べるの、いいじゃん」
「どれから行く?」
「どれも、って言いたいところだけど……」
アルスは紙を目で追う。
世界史概論。
大陸地理。
交易史。
基礎ノウス理論。
演術史入門。
「……まずは、世界のことじゃないか?」
「了解!」
ニーナは即答した。
そこへ声がかかる。
「おはよう、眠れた?」
振り返ると昨日案内してくれた先輩の少女が立っていた。
「最初は迷うよね、でも世界史か地理を選ぶ人が多いよ」
「やっぱりですか?」
「うん。ここ、どの国から来ても“自分の世界”を一回壊すところから始まるから」
その言葉にアルスは少しだけ考え込む。
壊す。
でも、それは悪い意味じゃない。
「じゃあ……」
ニーナが言う。
「世界史、行ってみよう」
「決まりだね」
二人がそう言うと、先輩は満足そうに頷いた。
「退屈だったら、途中で抜けてもいいから」
─────────────
講義室は思ったよりもざわついていた。
前の席では数人がノートを広げて話している。
後ろのほうでは遅刻しそうな生徒が駆け込んできた。
講義室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、背の低い老女だった。
白髪はきちんと結われ、背筋は驚くほどまっすぐ。
歩みはゆっくり。
「……おはようございます」
声は落ち着いていて、柔らかい。
だが、聞き取りやすく、よく通る。
生徒たちは自然と姿勢を正した。
「朝は冷え込みますね〜」
そう言って、小さく微笑む。
「さて。この講義は《世界概論》です」
黒板に丁寧な字で円が描かれる。
「まず、大前提からお話ししましょう。
この世界はひとつにまとまってはいません」
円の中に点が打たれていく。
「複数の国家が点在し、それぞれが異なる価値観、文明水準、信仰を持っています」
「皆さんの中にもすでに他国を見てきた方がいるでしょう」
ニーナは無意識にペンを握り直した。
「一部の国家同士は交易や外交によって結ばれ、
行き来が可能な範囲を“既知の世界”として共有しています」
点と点が線で結ばれる。
「ですが――」
老女は、少しだけ間を置いた。
「世界全体の、約半分は未踏領域です」
円の半分が静かに区切られる。
「正確な地図はなく、
誰もその全貌を知りません」
ざわめきが起きかけるが、
先生はそれを制することなく待った。
「陸路も、航路も、何らかの障害によって到達できないとされています」
結界。
山脈。
異常な自然現象。
危険生物。
「理由はいくつも考えられていますがいずれも仮説に過ぎません」
少しだけ声を落とす。
「数十年前、大規模国家を中心に調査が行われました」
アルスは息を詰めていた。
「……しかし、帰還した者はいませんでした」
淡々としているが突き放す響きはない。
「それ以来、調査計画は消え、
未踏領域は“語られない場所”となりました」
「恐れからではありません。現実的な判断です」
その言い切りにアルスは少し驚いた。
──────────────
先生は黒板の端に小さな船の絵を描く。
「そこで重要になるのが飛行船です」
「空を飛ぶ唯一の移動手段。ただし、極めて限られた技術です」
高い技術。
莫大な資源。
維持管理能力。
「小規模国家は、ほぼ保有していません。
中規模国家で一隻あるかどうか。
大規模国家には複数隻所有している国もあります。」
「飛行船を持たない国にとって、
未踏領域は事実上“存在しない場所”となります」
ニーナは静かに息を吸った。
「世界の半分は想像と夢の中にしか存在しない」
「……それが、今の世界です」
─────────────
話題は文明格差へ移る。
「国家ごとの文明水準には大きな差があります」
労働と生産を最優先する国。
自然や信仰と共に生きる国。
獣人を受け入れる国。
排斥する国。
「どれもその国なりの選択です」
老女は優しく言った。
「正しいか、間違っているかを
この講義で決めることはしません」
「ですが」
少しだけ声に芯が入る。
「違いは衝突を生みます。理解されなければ、恐れに変わる」
「獣人への扱いはその国の価値観を最もよく映します」
アルスの脳裏にヴァルドの姿が浮かんだ。
─────────────
「最後に」
先生はチョークを置いた。
「この世界には説明されないまま存在するものがあります」
異常存在。
「理由や仕組みは分からない。ですが、いるのです」
「世界は人の理解の外側にも広がっています」
老女は生徒たちを見渡した。
「だからこそ、学びなさい」
口調が変わる。
叱責ではない。
命令でもない。
「知ることは恐れを減らします」
「そして、
知らないまま踏み出すより、
知ってから選ぶほうがずっと遠くへ行ける」
鐘が鳴る。
「今日はここまでです。質問がある人は前に来てくださいねぇ」
講義室を出たあとニーナはしばらく黙っていた。
「……すごく、ちゃんとした授業だったね」
「うん」
アルスはゆっくり息を吐く。
ニーナは少し笑った。
アルスは空を見上げた。
世界は広い。
半分はまだ知られてない
でも――
知ろうとする道は確かにここにある。




