第4章 黒線
最初は、風のいたずらだと思った。
遠くで木が軋むような、低い唸り声。
それが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……今の、聞こえました?」
アルスが振り返ると、男は肩をすくめた。
「いや? 腹でも鳴ったか? 朝飯――」
男の冗談が終わるより早く、
森の空気が“揺れた”。
一瞬だけ風が吹き、木の葉がざわめく。
だが、それは自然の風ではなかった。
冷たい息のような、どこかから“押し寄せる”気配。
祠の穴から、空気が吸い込まれる音がした。
地表の草が逆立ち、影がひりつく。
「……今の、なんだ?」
男が一歩下がる。
細い影が、穴の奥から這い出した。
輪郭のない“歪み”が、光をねじ曲げながら形を変える。
羽のような、腕のような、ただの煙のような――
しかし、それは確かに“存在して”いた。
祠の上に黒いもやが集まり、
ゆっくりと膨らみ始める。
アルスは動けなかった。
頬を撫でた冷気が、肺の奥まで入り込む。
「……なんだありゃ……」
葉が一斉に伏せ、草がぺたりと潰れる。
“押される”のではなく、“引かれる”ような力。
祠の穴の奥で、黒い線が震えた。
一本の黒い糸。それがぐにゃりと曲がり、太くなり、
根元からちぎれた触手のようにこちらへ向かって伸びる。
「下がれ。」
男が低く言うが、アルスはその場に固まっていた。
黒い線が地面を滑り、アルスの足首に巻きついた。
「――っ!」
掴まれた感触はないのに、皮膚ごと押しつぶされるような痛みが走る。
力任せに引かれ、アルスの身体は後ろへ倒れた。
男が叫ぶ。
「離れろ!!」
だが黒い線は逃がさない。
足首を引きずり、アルスの身体を地面から浮かせる。
膝が空中に持ち上がり、背中が反る。
「く、あっ……!」
追いつかない呼吸の中で、痛みがはっきりと走る。足首の骨がミシ、と軋んだ。
黒い線がさらに太くなり――
アルスの体を引き裂くように、
真横へ“振った”。
木の幹に叩きつけられる直前――
空気が切り裂かれた。
乾いた音が森に響き、黒い線が途中で断ち切られた。
アルスは木に叩きつけられる前に、地面へ転がり落ちた。
「動くな。」
低く短い声。
木立の間からヴァルドが現れた。
その足元に、切断された黒い線の切れ端が“煙のように”消えていく。
祠の穴から、残りの黒い線が一斉に後退した。
まるで斬られたことに怯えて逃げるかのように。
ヴァルドはアルスの前に立ち、大剣を一点、祠へ向けた。
「……これは影ではない。風でも、獣でもない。」
黒い線は体を震わせる。
アルスは荒い息のまま地面についた手を震わせた。
足首には指のような痕がくっきり残り、痛みが脈打っていた。
「……引きちぎられるかと思った……」
ヴァルドは視線を祠から外さずに言った。
「今ので理解したはずだ。
これは“存在しない”類いのものだ。」
アルスは言葉を失った。
ヴァルドの声は淡々としていたが、
その背中から“緊張の重さ”がはっきり伝わってきた。
足首の痛みをこらえながら、
アルスは地面を蹴って立ち上がった。
呼吸が浅く、肺がまだ“掴まれた”感覚を覚えている。
ヴァルドが短く言う。
「――走るぞ。」
それだけで十分だった。
アルスも男も頷き、森の奥へ駆け出した。
その直後。
空気そのものを裂くように、影の足下から黒い線が四方八方へ飛び出してくる。
「来るぞ!!」
男が叫ぶ。
木々の間で、風が逆流した。
枝葉が後方へ吸い込まれる。
黒い線が地を這い、幹を滑り、
まるで獲物を“読む”ように動きを変える。
一本がアルスの背後に迫る。
ヴァルドが振り返りざまに斬る。
空気が割れ、線が弾けた。
だが、次がすぐ来る。
「多い過ぎる……!」
男が悲鳴に近い声を漏らす。
「止まるな!」
ヴァルドが怒鳴る。
「追いつかれる!」
三人は木々の間を縫い、獣道のような細い道へ駆け込んだ。
地面の根っこが足を取る。
枝が顔を打ち、視界がぶれる。
背後で、黒い線が幹をまるで刀のように切り裂いた。
重い木の裂ける音。
倒木が道を塞ぐ。
「右だ!」
ヴァルドの声。
アルスはとっさに転がるように右へ飛び込む。
黒い線が倒木を“薙ぎ払う”ように通り抜けた。
木の繊維が粉のように宙を舞う。
息が切れる。
足がもつれる。
影は止まらない。
その時――
森の奥から、
一筋の“風”が流れ込んだ。
ほんの一瞬。
弱々しい追い風。
ヴァルドの足が一段加速する。
「今のうちに離れろ!!」
三人は斜面を駆け下りた。
滑り落ちる岩、泥、刃のような枯れ枝が足を切る。
黒い線も追う。
斜面を滑り、跳ね、地面を削りながら迫ってくる。
アルスが足を取られ、身体が前につんのめる。
視界が地面に近づく——
「掴まれ!」
腕を引く力。
ヴァルドに腕を掴まれ、引きずるように前へ走らされる。
「う、うん……!」
その背後。
黒い線が地面に叩きつけられたように切り込んだ。
土が爆ぜ、石が飛ぶ。
あと少し遅れていたら、足ごと切断されていた。
斜面を抜け、開けた空間に飛び出した。
強い日差し。
小川の流れる音。
だが、振り返ると――
森の奥で、黒い線がまだ“こちらを探している”。
ヴァルドが言う。
「追ってこない。……境界を越えたんだ。」
息を荒げながら男が言う。
「なんだ……なんなんだ、あれは……!」
アルスは、まだ震える腕を押さえながら呟いた。
「……生きてる……?」
ヴァルドは剣についた黒い粉を払い落とし、低く言った。
「生きているかどうかは知らん。
だが一つだけ確かだ。」
「……なに?」
「――“意思を持って狩りに来ていた”。」
アルスは言葉を失った。
その静寂の中、
川面をかすかに風が撫で、
祠のある森だけが、異様なほどの静けさを保っていた。




