第3章 枯れた井戸
朝になっても、風は吹かなかった。
村の屋根の上の風車が、どれも止まったまま沈黙している。
空は澄み切っているのに、葉一枚すら揺れない。
宿の外に出たアルスは息を吐いた。
白くならない吐息が、ただ空気に溶けていく。
昨夜の炉のぬくもりがまだ指先に残っていた。
「やっぱり風がないね。」
「そうだな。」
ヴァルドは短く答え、空を見上げた。
「一晩で変化がないとなると、通常の気候変動などではないのだろうな。」
「じゃあ、“風の井戸”が関係あるのかな。」
「さあな。だが、俺たちには関係のない話だ。」
アルスは驚いたようにヴァルドを見た。
「どうして? 困ってる人がいるのに。」
「だからこそ、関わるつもりはない。」
ヴァルドはそう言い、荷をまとめ始めた。
アルスは口を開きかけたがヴァルドの横顔を見て言葉を飲み込んだ。
その表情は冷静で、決して怒ってはいなかった。
ただ、“何も言っても無駄だ”と告げるような沈黙だった。
アルスは唇を噛み、ゆっくりと立ち上がった。
「……じゃあ、僕は行く。」
ヴァルドは何も言わなかった。
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アルスはひとり、村の南へ歩き出した。
風のない朝は妙に重たく、足音だけがやけに響く。
昨日はあんなに柔らかく感じた陽の光が今は冷たく肌を刺した。
しばらく歩いたところで、背後から声がかかった。
「おい、少年。」
振り返ると、昨日畑で話した男が立っていた。
「獣人の方は一緒じゃないのかい?」
アルスは少し困ったように笑った。
「ちょっと用があって。僕だけで見に行こうと思って。」
「まさか祠までか?」
男は一瞬驚いたが、すぐに笑った。
「はは、物好きな子だな。危ない場所じゃないが、少し歩くぞ。」
「いいの? 案内してくれるの?」
「せっかく来たんだ。風の井戸を見ずに帰るのはもったいない。」
男は軽く肩をすくめ、手に持っていた道具で地面に突いた。
「ここは何もないが、この辺りじゃあそこが一番の見どころだからな。」
アルスの顔が明るくなる。
「本当に? ありがとうございます!!」
「なら行こうか。途中に祈りの木がある。
風が通ると葉が鳴るんだが……」
男は少しだけ空を見上げてから、歩き出した。
アルスはそのあとを軽い足取りでついていく。
「この国では、風が止まるのは珍しいことなんですか?」
「まあ、10年に1度あるかどうかだな。だからこそ、みんな落ち着かないんだろう。」
「風が止まると何か起こるんですか?」
「起こるというより……思い出す、かな。」
男は笑いながら続けた。
「“風が過ぎたあとに残るもの”ってのがあってな。昔の人はそれを『風の抜け殻』って呼んでたんだ。」
「抜け殻……?」
「ただの言い伝えさ。子どもが寝ないときに、風が来ない夜が来ちゃうぞ!ってね。」
アルスは少し安心したように笑った。
「へえ、面白いなあ。」
風のない道を、二人の笑い声だけがゆっくりと進んでいった。
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森へ入ると、光の色が変わった。
枝の隙間から差し込む朝日がまるで止まっているように感じられる。
葉の一枚も揺れず、鳥の声もない。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
「ねえ、風がなくても静かで気持ちいいね。」
アルスがそう言うと、男は笑った。
「いつもなら木の葉が鳴ってうるさいくらいだがな。こうして歩くと、昔の“風待ち”の話を思い出すよ。」
「風待ち?」
「俺が生まれるもっと前にあった風が吹くのを祈る行事さ。昔は風がないと粉も挽けなかったからな。」
「へえ……」
アルスは空を見上げた。
枝の向こうの空は青く、雲がまるで絵の具のように動かない。
あまりの静けさに自分の呼吸が大きく聞こえる。
やがて木々が途切れ、開けた場所に出た。
そこに小さな石の祠が立っていた。
腰の高さほどの祭壇に、円形の穴が空いている。
風を通すためのものだろう。
「ここが“風の井戸”さ。」
男は木の棒で祠の下を軽く突いた。
乾いた音が返ってくる。
「本来なら、風が通って“鳴く”んだ。
祈りのときは、ここに手をかざすんだよ。」
アルスは祠に近づき、そっと穴の縁をなぞった。
石は冷たく、わずかに湿っていた。
「前はちゃんと鳴いてたんですか?」
「三日前まで、な。朝晩に“ふう”って音がしてた。まるで、井戸が息をしてるみたいに。」
アルスは耳を寄せた。
しかし、何の音もしない。
ただ、深い奥行きだけが感じられた。
自分の心臓の音さえ吸い込まれていくような、静寂。
「……静かだね。」
「風が止まると、こうなる。」
男は小さく笑ったが、その声もすぐに空気に溶けた。
遠くで何かが鳴った気がした。
風の音ではない。
金属がこすれるような、低い響き。
だが、耳を澄ませたときにはもう消えていた。
アルスは空を見上げた。
雲が、少しだけ形を変えていた。




