背中に仕返し
「ひえ~しゃくり顔のゴア星人」
また、アイツが言ってる。レイコの顔を見て指さして冷やかす。一人で騒いでいればいいのに、クラス全員に聞こえる声でわざと張り上げる。
レイコは下を向いて、ただひたすら教室の机を前に運んでいた。反応すらしない。睨んだり涙を見せたりしたら、アイツの思うつぼだ。前歯の二つが大きい口元をだらしなく開けて、もう一回「ゴア星人」と叫んだ。「アゴ」を反対にして「ゴア」にしているが何ともしようもない。
机を運び続けるレイコの隣にミワが一言ささやいた。
「レイちゃん、気にしない方がいいよ。あいつ、誰にでも〇〇星人ってつけるんだから」
ミワは少し浅黒い肌に大きな目をぱちぱちさせている。頻繁に瞼を動かすからアイツから別の呼び名をもらっている。
「大丈夫、ありがとう」
レイコは短く返事をして、アイツのほうをチラッと見た。今度はミワの方に向かって何やら言っている。
アイツのおかげでレイコは自分にとって嫌な言葉を上手にシャットアウトできるようになった。聞けば聞くほど、頭のなかにこだまするからどうせなら耳栓をしようと考えた。休み時間には家からこっそり持ってきた耳栓でアイツの言葉が小さく聞こえるほどにボリュームダウンさせている。
「しゃくり顔のゴア星人」という言葉は、レイコのあごの長さと、きゅっと先が上向きになった特徴を見事に捉えている。普通に嫌だなと思ったが、意外にレイコは冷静だった。初めてそういわれたとき、クラスのみんなが大きく笑った。なかにはアイツと同じように、顎から上に向かって拳をきゅっと上向きに動かすジェスチャーを交えて冷やかした。
アイツは卑怯なやつだから、先生のいないときを見計らってレイコに例の言葉を浴びせた。掃除時間中、外掃除のチェックに向かった先生の後姿を見送ると、アイツは一度はレイコに叫ぶ。言われるままに無反応でいるレイコが面白くなくて、余計に大きな声で叫ぶのだった。
ある朝、学校に行くのを渋るレイコにママが静かにたずねた。
「どうしたの、なんか嫌なことでもあるの?」
母子家庭に育つレイコはママに自分のことを心配してもらうのをはばかった。家計を支えるために仕事を掛け持ちしているのに、心配かけたくなかったし、第一に、自分の顔のことをそんな風にいわれていることを知られたくなかった。同じように、少ししゃくれた顎をもつママをも傷つけてしまいそうで、「大丈夫」とだけ言ってランドセルに教科書を全部詰め込んだ。
「レイコ、何かあれば、すぐママに言うのよ」
レイコは軽く頷いて「行ってきます」といつもの声よりも少しだけ下げてドアを開けた。
玄関先にはママが育ててるハーブが風になびいている。柔らかい紫の花を付けたラベンダーにレイコはそうっと花をくっつけた。すっと優しくレイコのなかに入り込む香りに安心感をおぼえる。隣のプランターにはこれも大事に育てているイチゴの葉っぱが大きく育っているのが見えた。その葉っぱの下あたりを探っているとき、ドアが開いてママが顔を出した。
「レイコ、ママ、今日は学校まで歩いてくから、一緒に行こう」
「あ、でも、まだ早いでしょ」
「大丈夫、工場に行って休憩室でゆっくりしていればいいしね、健康のために歩くのもいいし」
レイコはイチゴの葉っぱをめくって真っ赤に育った小さなイチゴを一つとった。
「ママ、はい、これ」
「あれ、朝、なかったはずなのに、隠れていたのね、いいよ、レイコ、食べなよ」
レイコは、近くの水道で軽くイチゴを洗うと、先にママに差し出した。
「いいよ、先に食べて、きれいな花型の模様を見てから、私が食べるから」
レイコはいたずらっぽく笑うと、イチゴの先をママの口元にもっていく。
「じゃ、お言葉に甘えて」
その唇は少し艶感のある薄いピンクのリップでぬられていた。リップに当たらないよう半分だけ白い歯を見せてさくっと少し音を立てた。
「どう?美味しい?」
レイコがの質問に、ママは目元をちょっぴりくしゃっとさせながら、こう答えた。
「レイコ、これ、本当に美味しいよ。あまいというか、酸っぱい感じも絶妙にうれしい」
レイコはにっこり笑いながら、ママの食べたあとを見つめる。
「ね、これ、見て、やっぱりきれいだわ、この断面が好き」
イチゴの断面を見ると、中心は少し白い部分を残していたが、内側から外側にかけてピンクの柔らかいグラデーションが外側の赤に向かって広がっているのが見えた。
レイコはイチゴのへた部分まで自分の唇の感触のまま包み込むと、歯と舌にかけてゆっくりとイチゴを噛んでみた。じゅわっとした感触が口のなかに広がった。
「レイコ、辛いときは誰かにいうんだよ、言えるとほっとするし、もっと強くなれるから」
レイコはその言葉を聞いて、はっとした。今日は少しだけ前に進めそうな気がした。
二時間目の休み時間にその事件は起きた。チャイムが鳴るのと同時に外に出ようとしたアイツは、いつもと同じように同じ言葉をレイコに浴びせた。先生は教卓で宿題をチェックしていた、先生は聞いているのか聞かぬふりをしているのか、忙しそうにペンを動かしている。
レイコはアイツを無視して女友だちと一緒に外に出た。途中でミワが合流した。ミワはクラスの男子と少し会話してから興奮気味にレイコに話しかける。
「ねえ、レイちゃん、すごいこと知っちゃった」
「え、なに?」
レイコは昇降口で靴を履きながら高揚したミワにたずねた。
「あのね、アイツ、アイツだよ、レイちゃんのこと、本当は気になって好きなんだよって」
「まさか、それはないよ」
レイコは笑ってそう答えた。
走って運動場にかけていくアイツの背中を見て心が少し揺れたが、それでもレイコは信じられない。信じないというより、実際は許せない思い出を脳裏に蘇らせた。
1年前、父親が亡くなった時も、アイツは笑ってレイコに同じ言葉を浴びせた。今は父さんがいる。だって父さんがイチゴを作っていたから。イチゴは父さんがレイコ、ママの次に愛したーーもしかしたら一番愛したかもしれない大切なもの。
レイコはママに黙って持っていたイチゴをポケットにしまっておいた。そのイチゴをポケットにギュッと右手で握ったまま、アイツに追いついた。
「おい」
レイコがアイツに声をかける。アイツは驚いて後ろを振り向いた。
「いいかげんにしろ、バカの一つ覚えのように同じことを言うんじゃねぇ、いつかお前に仕返ししてやるからな」
レイコはアイツの耳元で、アイツしか聞こえない大きさでささやいた。そういうと後ろからバンと背中を押した。右手についたイチゴの果肉もろともアイツの白いシャツにべったりと付く。レイコは果肉を払うようにして、もう一度同じ背中を押した。
アイツは、口をあんぐりさせながら「なんだよ」と弱弱しい声を出すのが精いっぱいだった。隣にいた別の男子はとっくに先に走っていってしまっている。彼らから呼ばれて、はっとして慌ててそっちに駆けてゆく。レイコはじっと背中を見送った。真っ白いTシャツに鮮やかな赤が日差しに手を伸ばしているようだ。
「パパ、あとはよろしく」
レイコは、すっきりした顔で初夏の青い空を仰いだ。
「しゃくり顔のゴア星人」という名はその日から消えた。