**第8話:隣の席、空いてますか?**
午後3時。
雨が静かに降り続ける中、“喫茶リセット”のドアが開いた。
入ってきたのは、カジュアルな服装の中年男性。
そわそわと辺りを見回してから、カウンターではなく、二人席の片側に腰を下ろした。
「……ここ、誰か来ます?」
尋ねると、マスターは首を横に振った。
「ええ、今のところは。お飲み物は?」
「コーヒーを、砂糖なしで」
マスターが静かに差し出したカップの縁から、湯気がたゆたう。
男は、どこか言いたげにしながら、コーヒーを口にした。
5分後、再びドアが開いた。
今度は女性。年は男と同じくらい。
入ってきた途端、男性と目が合う。
ぎこちない空気。沈黙。そして、女性のほうが口を開いた。
「……やっぱり、来てたんですね」
男は答えない。代わりに、隣の席の椅子を引いた。
「……ここ、空いてます」
女性は少しだけ迷ってから、ゆっくりと腰を下ろした。
「この店、落ち着くって、前に言ってたから。来ればいると思って」
「そう。俺も、そう思ってた。……来なかったら、それはそれでよかったって」
沈黙が降りる。けれど、喫茶リセットの空気は不思議と重くならない。
マスターがそっと、ミルクティーを二人の間に置いた。
「サービスです。心が冷えたときは、あたたかい飲み物がよく効きます」
男と女は顔を見合わせ、思わずふっと笑う。
「昔から、こうやって、間に何か置くと話せたね」
「うん。言いづらいことも、こうやって」
そして、ふたりは語りはじめた。
別れてからの後悔。言えなかった本音。変わったことと、変わらないこと。
すべてを語る必要はなかった。ただ、隣に座り、同じカップを手にしている。それだけでよかった。
やがて、女性が席を立つ。
「……ありがとう。また来ます。今度は、友達として」
男はうなずいた。
「じゃあそのときも、同じ席で。今度は、こっちがごちそうするよ」
ドアが閉まり、再び静寂が戻る。
マスターはカウンターでカップを磨きながら、つぶやいた。
「“空いてますか”って、言える関係っていいものですね」
誰にともなく呟かれたその言葉は、店内にやさしく沁み込んでいった。
---