第5話:音のしないピアノ
昼下がりの『喫茶リセット』に、ひとりの男性客がやってきた。
年の頃は五十代半ば。スーツ姿だが、どこか疲れたような目をしている。
「……ピアノ、ありますよね」
マスターがうなずくと、彼は「少しだけ」と断って、静かに蓋を開けた。
店の奥にあるアップライトピアノ。滅多に使われることのない、飾りのような存在だった。
鍵盤に指を置いた彼は、ためらうように1音、2音と鳴らした。
だが、音は出なかった。
「ああ……やっぱり……」
「それ、音が出ないんです。鍵盤は動いても、中のハンマーが外されていて」
マスターはそう言いながら、コーヒーを淹れ始めた。
「理由があるんですか?」
「ええ。昔、ここで音大生の子が練習してましてね。ある日、彼女が“音が出ないピアノも、弾きたくなるときがある”って言ったんです」
「……どういう意味です?」
マスターは微笑んでカップを差し出した。
「人に聞かせたい音じゃなくて、自分の心の中にしか届かない音を、そっと奏でたいときがある。そういう時間って、ありませんか?」
男はしばらく沈黙していたが、やがて小さくうなずいた。
「……息子がピアニストなんです。私は、ただの営業マン。でも今日、初めて“音を出さずに弾いてみたい”って思いました」
鍵盤の上に置かれた彼の指は、音を立てずにメロディを紡いでいく。
無音の旋律は、彼の心にだけ響いているようだった。
「……いいですね、このピアノ。誰にも届かないのに、何かが届く気がします」
マスターは頷いた。
「“何も聞こえない音”も、人生には必要なのかもしれませんね」
男は一礼して出ていった。
ピアノの上には、名刺が一枚――裏には、こう書かれていた。
「息子の演奏会、よければ聴きに来てください。あなたの“静かなピアノ”に、感謝を込めて」
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