第39話「古い時計」
喫茶リセットの壁には、古い振り子時計が掛かっている。
開店当初から、ずっと同じ場所だ。
正確かと言われれば、そうでもない。
少しだけ、遅れる日がある。
その午後、時計の前で足を止めた女性がいた。
白髪混じりの髪をきちんとまとめ、小さなハンドバッグを抱えている。
「……まだ、動いてますね」
「はい。止まったことはありません」
「そう」
女性は、窓際の席に座った。
「若い頃、時間に追われてばかりだったんです」
マスターが水を置く。
「会社、家事、子育て。
気づいたら、時計を見る癖がついて」
「今は?」
「今は……」
女性は微笑む。
「見る理由がなくなりました」
「寂しいですか」
「いいえ。
ただ、少し怖い」
マスターは、コーヒー豆を挽きながら聞く。
「何がでしょう」
「時間が、余ること」
女性は、壁の時計を見る。
「この音、好きなんです。
カチ、カチって」
振り子の音が、確かに店に溶けている。
「まだ、進んでいるって分かるから」
コーヒーが置かれる。
「ブラックでよろしかったですか」
「ええ。
昔と同じで」
一口飲んで、目を細める。
「……苦い。
でも、変わらない味」
「変わらないものも、必要です」
「そうですね」
女性は、少し考えてから続けた。
「私、今日で仕事を辞めたんです」
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
その言葉に、女性の目が潤んだ。
「言われ慣れていなくて」
時計が、またひとつ音を刻む。
「これから、何をすればいいのか……
まだ分からなくて」
「分からない時間も、動いています」
「……そうか」
女性は、バッグから小さなメモ帳を取り出した。
「やりたいこと、書き出してみようと思って」
「いいですね」
「最初は、
“ここに、また来る”」
マスターは、わずかに頷く。
「時計が止まる前に?」
「いえ」
女性は笑う。
「止まっても、来ます」
会計を済ませ、立ち上がる前に、もう一度時計を見る。
「遅れても、いいんですね」
「ここでは」
「……助かります」
扉が閉まり、静けさが戻る。
振り子時計は、今日も少し遅れながら、確かに時を刻む。
喫茶リセットでは、
急がない時間も、ちゃんと進んでいる。




