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喫茶リセット 〜今日も、誰かの心をそっと整理します〜  作者: 蔭翁


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第37話「忘れ物の味」



 午後四時。

 陽射しがやわらかく傾き、カウンターに長い影を落としていた。


 扉のベルが鳴り、年配の女性がゆっくりと入ってくる。

 背筋は伸びているが、足取りは慎重だった。


「いらっしゃいませ」


「……あの、ここに、忘れ物は届いていませんか」


 女性の手は、小さく震えている。


「どんな物でしょう」


「古い手帳です。

 茶色の革で……角が少し、すり切れていて」


 マスターはすぐに思い当たった。

 数日前、確かにカウンターの端に置き去りにされたままの手帳があった。


「こちらですね」


 差し出された瞬間、女性は両手で包み込むように受け取った。


「……よかった」


 胸に抱き寄せ、しばらく目を閉じる。


「大切な物ですか」


「ええ。

 夫と一緒に、いろんな店を巡った記録なんです。

 味のこと、景色のこと……

 もう、十年以上前になりますけど」


 女性は席に腰を下ろし、手帳を開いた。

 そこには、几帳面な文字と、ところどころ滲んだインク。


「最近、味が分からなくなってきて」

「……味覚、ですか」


「いえ。舌じゃなくて、心の方です」

 小さく笑う。

「夫が亡くなってから、何を食べても、同じで」


 マスターはカウンター越しに、そっと尋ねた。


「コーヒー、お淹れしましょうか」


「……昔、夫が好きだった味で」


 豆を挽く音が、静かに店に満ちる。

 ゆっくり、丁寧に落とされた一杯。


 女性はひと口飲み、驚いたように目を見開いた。


「あ……」


「いかがですか」


「……忘れてました」

 声が少し、震える。

「苦くて、でも、後で甘くなる。

 『人生みたいだ』って、よく言ってたんです」


 手帳を閉じ、カップを両手で包む。


「味って、不思議ですね。

 忘れたつもりでも、ちゃんと残ってる」


「忘れ物は、消えたわけじゃありません。

 少し、置き場所が分からなくなっていただけです」


 女性は、深くうなずいた。


「……ここに来てよかった」


 立ち上がる前、手帳をもう一度撫でる。


「また、忘れたら……来てもいいですか」


「ええ。

 味でも、記憶でも」


 扉が閉まり、店内に静けさが戻る。


 マスターは、空いたカップを洗いながら思う。


 人は、忘れ物を探しに来るのではない。

 思い出していいと、許可をもらいに来るのだ。


 今日もまた、「喫茶リセット」には

 取り戻された味が、静かに残っていた。

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