第36話「時計の止まった席」
昼と夕方のあいだ。
喫茶リセットには、時間がゆっくりと滞るような静けさがあった。
壁に掛けられた古い振り子時計が、一定の間隔で音を刻んでいる。
その音が、今日はなぜか一席分だけ届いていないように感じられた。
扉のベルが鳴り、若い男性が入ってくる。
スーツ姿だが、ネクタイは緩み、目の奥に疲れが滲んでいた。
「……空いてますか」
「どうぞ。お好きな席へ」
男性が選んだのは、窓際の端の席。
マスターの中で、ほんのわずかに気配が揺れた。
――そこは、長いあいだ誰も座らなかった席だった。
「コーヒーでよろしいですか」
「はい。……できれば、冷めにくいのを」
運ばれてきたカップを前に、男性はしばらく手を伸ばさなかった。
ただ、壁の時計をじっと見つめている。
「時間、気になりますか」
マスターの問いに、男性は苦笑した。
「昔、この時間で止まってるんです」
「……と言いますと」
「十年前、この時間に、約束を破りました。
友人と会う約束をしていたのに、仕事を優先して……
その日の夜、事故で亡くなったんです」
時計の針が、ちょうどその時刻を指していた。
「それ以来、この時間になると、何も進めなくなる。
昇進しても、結婚しても……
心だけ、ここに置いてきたままで」
マスターは黙って、時計の振り子を一度だけ指で止めた。
カチリ、と音が消える。
「……え?」
「今、止めました」
そう言って、マスターはゆっくり振り子を戻す。
再び、時計は動き出した。
「時間は、止まったままでも進んでも、どちらでもいいんです。
大切なのは、“あなたがどこに立つか”ですから」
男性は、ようやくカップを手に取った。
ひと口飲み、深く息を吐く。
「……あいつ、怒ってますかね」
「もし怒っていたら、ここまで待たせないでしょう」
男性の目に、かすかな光が戻る。
「……そうですね。
あいつ、待つのが苦手だったのに」
時計の音が、今度ははっきりと店内に響いていた。
その席にも、確かに届いている。
男性は立ち上がり、深く頭を下げた。
「……また、時間が止まりそうになったら、来てもいいですか」
「ええ。その席は、もう動いていますから」
扉が閉まり、外の光が少し傾いていた。
マスターは時計を見上げ、静かに呟く。
「止まっていたのは、時間じゃない。
歩き出す許可を、誰かが待っていただけだ」
今日もまた、「喫茶リセット」は
置き去りにされた時間を、そっと動かしている。




