第35話「忘れ物の傘」
朝から降り続いた雨が、夕方になってようやく小降りになった。
喫茶リセットの入口には、いつの間にか傘立てがいっぱいになっている。
マスターはカウンターの中から、その様子を眺めていた。
色とりどりの傘。その中に、一本だけ、古びた紺色の傘が混じっている。
柄の部分が少し擦れていて、持ち主の手に長く寄り添ってきたことが分かる傘だった。
扉のベルが鳴り、初老の男性が入ってくる。
背中はやや丸まり、コートの肩口が雨で濡れていた。
「いらっしゃいませ」
「……あの、ここに傘を忘れなかったでしょうか」
男性は少し気恥ずかしそうに言った。
マスターは静かに傘立てを指さす。
「どれでしょう」
男性は迷わず、あの紺色の傘を手に取った。
ほっとしたように息をつく。
「よかった……これ、亡くなった妻が選んでくれた傘なんです。
忘れたことに気づいた途端、胸がざわついて……」
マスターは頷き、温かいコーヒーを差し出した。
「雨の日は、思い出を連れてきますからね」
男性はカップを手に取り、ぽつりぽつりと話し始めた。
「妻は雨が好きでね。
『濡れるのも悪くないでしょ』って、よく笑っていました。
でも私は、濡れるのが嫌いで……傘ばかり気にしていた」
男性は傘の柄をなぞる。
「今思うと、一緒に雨に濡れて歩けばよかったな、と」
マスターは静かに言った。
「忘れ物は、気づいた人に戻るようになっています。
今日、傘がここにあったのは――
きっと、その思い出を少しだけ、もう一度抱きしめるためでしょう」
男性はカップを飲み干し、深く息を吐いた。
その表情は、来店時よりも柔らいでいる。
「……もう少し、妻の話をしてから帰ろうかな」
「ええ。雨が止むまで、ごゆっくり」
店の外では、雨雲の切れ間から夕焼けがのぞいていた。
傘立てには、もう一本分の空きができている。
マスターはその空間を見つめながら、静かにカウンターを拭いた。
忘れ物は、ただの物じゃない。
それは、置いてきた気持ちが、帰り道を思い出した合図なのだ。
今日もまた、「喫茶リセット」は
誰かの大切なものを、そっと手元へ返している。




