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喫茶リセット 〜今日も、誰かの心をそっと整理します〜  作者: 蔭翁


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34/42

第34話「父のカレー」



夕方の街は、ゆっくりと灯りを灯し始めていた。

喫茶リセットの窓の向こうでも、通りを照らすオレンジ色の光がふわりと揺れる。


マスターがカウンターを拭いていると、扉のベルがやさしく鳴った。

入ってきたのは、どこか気まずそうな表情の若い女性。

手には紙袋を抱えている。


「いらっしゃいませ」


「あの……カレーライスって、ありますか?」

彼女の声は、少しだけ迷いを含んでいた。


「普段はお出ししていませんが、今日は“ちょうど”ありますよ」

マスターは微笑む。

まるで、来客を予感していたかのように。


女性は驚きつつも、安堵の息をつき、カウンターに座った。


しばらくすると、スパイスの香りと共に、湯気立つカレーが運ばれてきた。

その香りを嗅いだ瞬間、女性は思わず口元を押さえた。


「……懐かしい。父の作ってくれたカレーに……似てます」


マスターは静かに頷き、カウンターに手を置いた。

「よければ、お話を聞かせていただけませんか?」


女性はスプーンを握ったまま、ゆっくり語り始めた。


「私、小さい頃から父と二人暮らしで……

仕事で忙しい父が、唯一よく作ってくれたのが、この香りのカレーなんです」


目が少し潤んだ。


「でも私……先月、ものすごく父と喧嘩して家を飛び出しました。

理由は些細なことで……でも、謝るタイミングを失ってしまって」


スプーンが震える。

女性はカレーをひと口食べると、涙がぽろりと落ちた。


「なんで……こんなに似てるんですか……?」


マスターは鍋の火を見つめながら語る。

「不思議なものです。

誰かが“戻りたい味”を思って迷い込んでくると、

なぜかその味がふっと、レシピの中に現れるんですよ」


女性は驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に変わった。


「……戻りたい。戻りたいんです、本当は。

父に謝りたいのに、勇気がなくて」


マスターは、テーブルの端にある小瓶をそっと差し出した。

ラベルには、“仕上げの一滴”と書かれている。


「お父さまのカレーに、最後に何かひとつ仕上げの味がありましたか?」


女性はスプーンを止め、記憶を探る。


そして、微笑んだ。


「……そうだ。父、必ず最後に“はちみつ”を少し入れるんです。

『疲れがとれる魔法だぞ』って」


「でしたら、それを」

マスターは小瓶を開ける。


女性がはちみつをひとさじ垂らすと、香りがふわりと変わる。

懐かしい家の匂いが広がった。


女性は震える声でつぶやく。


「……帰ります。怖いけど……帰らなきゃ、きっと後悔するから」


マスターは深く頷いた。

「大切な人には、遅すぎる謝罪というものはありません。

ただ、“言わなかった後悔”は、ずっと胸の中に残りますから」


女性は紙袋を抱え直し、立ち上がった。

その足取りは、不安もあったが、確かに前へ向いていた。


店を出る瞬間、オレンジ色の街灯が彼女の背中を照らす。

まるで“行ってこい”と背中を押すように。


マスターは窓越しにその姿を見送り、

テーブルに残された空の皿をそっと片づけた。


はちみつの甘い香りだけが、しばらく店内に残っていた。


今日もまた、「喫茶リセット」は誰かの帰る場所をそっと照らしている。

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