第34話「父のカレー」
夕方の街は、ゆっくりと灯りを灯し始めていた。
喫茶リセットの窓の向こうでも、通りを照らすオレンジ色の光がふわりと揺れる。
マスターがカウンターを拭いていると、扉のベルがやさしく鳴った。
入ってきたのは、どこか気まずそうな表情の若い女性。
手には紙袋を抱えている。
「いらっしゃいませ」
「あの……カレーライスって、ありますか?」
彼女の声は、少しだけ迷いを含んでいた。
「普段はお出ししていませんが、今日は“ちょうど”ありますよ」
マスターは微笑む。
まるで、来客を予感していたかのように。
女性は驚きつつも、安堵の息をつき、カウンターに座った。
しばらくすると、スパイスの香りと共に、湯気立つカレーが運ばれてきた。
その香りを嗅いだ瞬間、女性は思わず口元を押さえた。
「……懐かしい。父の作ってくれたカレーに……似てます」
マスターは静かに頷き、カウンターに手を置いた。
「よければ、お話を聞かせていただけませんか?」
女性はスプーンを握ったまま、ゆっくり語り始めた。
「私、小さい頃から父と二人暮らしで……
仕事で忙しい父が、唯一よく作ってくれたのが、この香りのカレーなんです」
目が少し潤んだ。
「でも私……先月、ものすごく父と喧嘩して家を飛び出しました。
理由は些細なことで……でも、謝るタイミングを失ってしまって」
スプーンが震える。
女性はカレーをひと口食べると、涙がぽろりと落ちた。
「なんで……こんなに似てるんですか……?」
マスターは鍋の火を見つめながら語る。
「不思議なものです。
誰かが“戻りたい味”を思って迷い込んでくると、
なぜかその味がふっと、レシピの中に現れるんですよ」
女性は驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に変わった。
「……戻りたい。戻りたいんです、本当は。
父に謝りたいのに、勇気がなくて」
マスターは、テーブルの端にある小瓶をそっと差し出した。
ラベルには、“仕上げの一滴”と書かれている。
「お父さまのカレーに、最後に何かひとつ仕上げの味がありましたか?」
女性はスプーンを止め、記憶を探る。
そして、微笑んだ。
「……そうだ。父、必ず最後に“はちみつ”を少し入れるんです。
『疲れがとれる魔法だぞ』って」
「でしたら、それを」
マスターは小瓶を開ける。
女性がはちみつをひとさじ垂らすと、香りがふわりと変わる。
懐かしい家の匂いが広がった。
女性は震える声でつぶやく。
「……帰ります。怖いけど……帰らなきゃ、きっと後悔するから」
マスターは深く頷いた。
「大切な人には、遅すぎる謝罪というものはありません。
ただ、“言わなかった後悔”は、ずっと胸の中に残りますから」
女性は紙袋を抱え直し、立ち上がった。
その足取りは、不安もあったが、確かに前へ向いていた。
店を出る瞬間、オレンジ色の街灯が彼女の背中を照らす。
まるで“行ってこい”と背中を押すように。
マスターは窓越しにその姿を見送り、
テーブルに残された空の皿をそっと片づけた。
はちみつの甘い香りだけが、しばらく店内に残っていた。
今日もまた、「喫茶リセット」は誰かの帰る場所をそっと照らしている。




