第33話「なくした声」
昼下がりの喫茶リセットに、ふと影が差した。
扉のベルが小さく鳴り、ひとりの少女がそっと入ってくる。
制服姿の中学生。胸元のリボンがわずかに震えていた。
「いらっしゃいませ」
マスターが優しく声をかけると、少女は驚いたように小さく会釈した。
彼女は喋らない。声を出そうとしても、唇が動くだけだった。
「こちらへどうぞ」
促され、少女はカウンターの端に座る。
マスターがメニューを置くと、彼女は震える指で“ホットミルク”を指した。
カップを温めながら、マスターはそっと尋ねた。
「声が……出づらいのですね?」
少女はしばらく迷ったあと、頷いた。
そして、制服のポケットから折りたたんだ紙を差し出す。
──声が出ません。学校で、急に出なくなりました。
──とくに理由はないけど、何か言おうとすると胸が苦しくなります。
マスターは紙を読み終え、微笑んだ。
「理由がないようで、きっとどこかに小さな“きっかけ”があるのでしょうね」
ちょうどそのとき、温かい湯気を立てたホットミルクが完成した。
ほんの少し、優しい甘さを加えて。
少女は両手でカップを包み、そっと口をつけた。
ほっとしたように肩が少しだけ下がる。
「学校で、何か……ありましたか?」
少女はゆっくり視線を落とし、再び紙に書く。
──合唱コンクールでソロをしたんです。
──失敗しました。
──それから、みんなに迷惑をかけた気がして……声を出すと、怖いです。
紙を差し出す手が震えていた。
マスターは一度も少女の失敗を責めず、静かに話を続けた。
「声というのは、不思議なものです。
人の評価よりも、自分の気持ちの影響を強く受けますから」
「でも……」
少女は声を出そうとしたが、喉が震えただけだった。
マスターは、棚の奥から小さな鈴を取り出した。
銀色に光る、控えめな音色の鈴。
「ちょっと振ってみますか?」
少女が恐る恐る振ると、かすかな音が店内に響いた。
チリン……優しく、少し心をほどくような音。
「声が出ないときはね。
代わりに、何か小さく鳴るものを持つといいんですよ。
“言いたかった気持ち”を、少しだけ外に出せますから」
少女の目が揺れた。
再び鈴を鳴らす。
チリン……今度は先ほどよりも、ほんの少しだけ大きく。
「その音色が、あなたの声の代わりです。
いつかまた声を出せるようになったとき、
この鈴が『その瞬間を待ってたよ』って教えてくれるでしょう」
少女は、ゆっくりと頬が緩むほどの笑顔を見せた。
そして、深く息を吸い込む。
震える喉で、小さく、小さく――
「……ありがとう……ございます」
それはかすれた声だったが、確かに言葉だった。
マスターは微笑んで、軽く会釈する。
「ごゆっくりどうぞ。あなたの声は、必ず戻りますよ」
少女は店を出る時、ポケットの中の鈴をそっと鳴らした。
チリン……と清らかな音が、夕暮れの空へ溶けていった。
今日もまた「喫茶リセット」は、失くした何かをそっと取り戻してあげる。




