第32話「雨音のカウンター」
昼下がりの街に、ぽつりと雨が落ちた。
それはすぐに静かなシャワーのような雨音へと変わり、
喫茶リセットの窓ガラスをやさしく叩いていく。
マスターは黙ってカップを磨いていた。
雨の日の店は、いつもより少しだけ落ち着いている。
そんな時、扉のベルが小さく鳴った。
傘をたたみながら入ってきたのは、どこか気まずそうな様子の青年だった。
二十代前半だろうか。服は濡れていないのに、表情だけが雨雲を背負っているように見える。
「……コーヒー、お願いします。苦いやつで」
「かしこまりました」
青年が座ったのは、誰も座らないことで知られる“角の席”。
心に何か抱えた客が、なぜか自然と引き寄せられてしまう場所だった。
コトリ、とカップが置かれた。
香り立つ深煎りの苦味が、空気を少しだけ温める。
青年は両手を組み、しばらく黙り込んでいた。
やがて、ぽつりと落ちる雨のように言葉がこぼれた。
「……親父と、喧嘩しちゃって。大声で、酷いことまで言ってしまって……
もう二度と会えないような気がして、気がついたらここに来てました」
マスターは少しだけ眉を下げたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「喧嘩は、言葉が強くなるだけで、本心は意外と弱いものですよ」
青年はカップを見つめながら首を振った。
「それでも……言っちゃったんです。
'俺だって、別に家族なんていらない'……って」
しばらく雨音だけが店内に響いた。
マスターは静かに棚の奥から、一枚の古いコースターを取り出した。
そこには手書きの文字――
“言えなかった言葉も、届かなかった気持ちも、雨がいつか流してくれる”
青年が目を瞬く。
「これ……?」
「昔、この席に座ったお客さんが置いていったものでしてね。
親子喧嘩で同じことを悩んでいました」
まるで自分のことのように青年の肩が震えた。
雨が、少しだけ弱まった。
「……俺、本当は、親父のこと嫌いじゃなくて。
でも、いつも不器用で、素直になれなくて……。
今日の喧嘩も、俺が悪かったのかもしれません」
「なら、今日の雨はちょうどいい」
マスターは柔らかく微笑んだ。
「雨の日はね、人の心を少しだけ柔らかくします。
乾いたままだと折れてしまう気持ちも、湿っていればしなやかになる」
青年は深煎りの苦味をひと口飲んだ。
その表情が、雨上がりの空のように少し明るくなる。
「……帰ってみます。ちゃんと話してみます」
「ええ。雨が止むまでに、心の中の言葉を少し整理しておくといいですよ」
青年は小さく頭を下げ、外へ出ていった。
ちょうどその瞬間、雨はやみ、雲の隙間から光がこぼれた。
マスターはカウンターに残った古いコースターをそっと戻す。
あの日の客も、今日の青年も、
きっと同じように――雨が心を整えてくれたのだろう。
そして今日もまた、喫茶リセットでは
誰かの心がひっそりと晴れていく。




