第31話「桜の記憶」
春の風が、街角の桜を揺らしていた。
満開の花びらが舞い散る中、一枚の花びらが扉の隙間からふわりと店内へと流れ込む。
「いらっしゃいませ」
マスターが穏やかな声で迎えると、黒いスーツ姿の女性が静かに頭を下げた。
年の頃は三十代半ば。胸元には小さな白い花を飾っている。
「……桜の季節になると、思い出すんです」
そう言って、彼女はカウンター席に腰を下ろした。
マスターは微笑み、焙煎の浅い豆を取り出した。
「春限定のブレンドがあります。少し、花の香りがしますよ」
やがて、店内にふわりとやさしい香りが漂った。
それはまるで、過去の思い出をそっと撫でるような香りだった。
カップを見つめながら、女性はぽつりぽつりと話し出した。
「高校の時、いつも一緒にいた友人がいました。
卒業してからも、毎年この時期に桜を見に行っていて……でも、三年前、急に会えなくなって」
「会えなくなった?」
マスターが問い返すと、彼女は小さく頷いた。
「交通事故でした。突然すぎて、現実が受け止められなくて。
それ以来、桜を見るのがつらくて……でも、やっぱり見たくなって」
言葉の途中で、涙が一滴だけ、カウンターに落ちた。
マスターは何も言わず、彼女の前にナプキンを差し出す。
「桜はね、咲くために冬を越えるんですよ」
その言葉に、彼女は顔を上げた。
マスターの眼差しは、静かに春の光を宿していた。
「人も同じです。つらい季節を越えて、また咲ける。
思い出すたび、悲しみだけじゃなく、あの人と過ごした“春”を思い出せたなら、それはもう再会ですよ」
女性はしばらく黙っていたが、やがてカップを手に取った。
口に含むと、ほのかな花の香りとともに、胸の奥があたたかくなった。
「……この香り、あの子の好きだった香水に似てます」
「ええ、桜の花びらを少しだけ焙煎の途中で混ぜているんです」
「だから、懐かしい気がしたんですね」
彼女は微笑み、立ち上がった。
外に出ると、桜吹雪が舞っていた。
花びらが頬に触れた瞬間、彼女は空を見上げる。
――まるで、あの子が笑っているみたい。
その足取りは、来たときよりもずっと軽かった。
店内では、マスターが静かにカップを洗っている。
湯気の向こうで、カウンターの片隅に散った一枚の桜の花びらが、ゆっくりと溶けて消えた。
今日もまた、「喫茶リセット」は誰かの心をそっと癒している。




