第27話 「閉店間際の来訪者」
時計の針が夜の九時を指しかけていた。
喫茶リセットは閉店前の静けさに包まれている。
カップを片付けていたマスターの耳に、カラン――と鈴の音が響いた。
扉の向こうには、スーツ姿の男性。少し息を弾ませている。
「……まだ、やってますか?」
「ええ。閉店まではあと十五分ほどですが」
「じゃあ……ホットコーヒーをください」
マスターが静かにカップを置くと、男は深く息を吐いた。
「こんな時間にすみません。仕事がうまくいかなくて……帰りたくなかったんです」
マスターは、ただ静かに相槌を打った。
カップの中でゆらめく湯気が、男の疲れを包み込むように漂う。
「今日、大きなプレゼンで失敗しました。部下の前でうまく話せなくて……自分が情けなくて」
「そういう夜もあります」とマスターは穏やかに言った。
「でも、失敗した夜ほど、心に静かな音が残ります。その音が次の朝、きっと力に変わる」
男はしばらく沈黙したあと、カップを両手で包みながらつぶやいた。
「……静かな音、ですか」
「ええ。喧騒の中では聞こえない、小さな“自分の声”です」
男の肩の力が、少しずつ抜けていく。
やがて彼は、ふっと笑った。
「……不思議ですね。ここに来ると、心が少しだけ整う気がします」
「それが“リセット”という店名の由来なんですよ」
マスターの言葉に、男は目を細めた。
「なるほど。じゃあ、また来てもいいですか?」
「もちろん。次は少し早めにどうぞ。閉店間際は、コーヒーが少し冷めやすいですから」
男は軽く笑い、深々と頭を下げて帰っていった。
扉のベルが静かに鳴る。
マスターはカップを磨きながら、ぽつりとつぶやいた。
「失敗の夜ほど、朝の光はやさしく見える」
外には、明日へつながる細い月が浮かんでいた。
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