第2話:スーツの男とカレーの香り
雨が止んだあとの午後、「リセット」の扉がカランと鳴った。
「……ひとり、いいですか」
入ってきたのは、くたびれたスーツ姿の中年の男性だった。
肩は濡れ、目の下には深いクマ。よほど疲れているのか、まっすぐカウンターの端に座る。
「……カレー、まだありますか?」
マスターは無言でうなずき、厨房の奥へ消えた。
やがて香ばしいスパイスの香りが店内を満たし、男の頬が少しだけゆるんだ。
「……この匂い、懐かしいな」
ぼそっと漏れた言葉に、マスターはチラリと視線を向ける。
「昔、実家の近くに小さな食堂があって。学校帰りに母と寄ってたんです。そこのカレーと、似てる気がして……」
マスターはカレー皿をそっと置いた。
「……味は違うかもしれませんよ」
「いえ、いいんです。思い出せれば、それだけで」
男はスプーンを取り、ひと口。
そして、不意に肩を落として小さく笑った。
「……会社、辞めました。二十年働いて、終電で帰る毎日で。家族もいなくて。……何やってたんだろうって思って、気づいたらこの店にいました」
「人生のリセット、ですか」
「そんな格好いいもんじゃないです。ただ……このカレーに救われた気がしました」
男は最後のひと口まで、静かに味わった。
帰り際、マスターが一言だけ言った。
「……味を、思い出せたなら、それは立派な一歩です」
男はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。リセット、してみます。少しずつ」
扉が閉まったあとも、カレーの香りだけがしばらく店内に残っていた。
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