第19話:三日坊主じゃない
午後の陽が差し込む店内。
カウンター席の端に座ったのは、二十代半ばの男性。グレーのパーカーにリュック。やや猫背で、手元には一冊のスケッチブック。
「……アイスコーヒー、お願いします」
マスターがうなずき、静かに準備を始める。
青年はスケッチブックのページを何度もめくったり戻したりしているが、鉛筆は動かない。
「絵、お描きになるんですか?」
マスターの声に、彼は驚いたように顔を上げた。
「いえ、まだ……“描こうとしてる”だけです。三日前から、毎日一枚描こうって決めたんですけど……今日は、描けなくて」
「三日続いてるんですね。それはもう、三日坊主じゃありませんよ」
そう言って差し出されたアイスコーヒーのグラスには、小さなクッキーが添えられていた。
それを見た青年が、ふっと小さく笑う。
「ありがとうございます。でも、自分で自分に“続けられる人間”って、まだ言えないです」
マスターは黙って、棚から一冊の古いスケッチブックを取り出した。
そこには、拙くも力のこもった風景画、日常の断片、何気ないコーヒーカップのクロッキー……さまざまな絵が並んでいた。
「これ、常連のお客さんが“描けない日”にだけ描いた絵なんです」
青年は目を見開いた。
「描けない日……に?」
「ええ。“描けない気持ち”だけを、鉛筆で置いていく。無理に作品にしなくても、線を引くことが、続けることなんです」
青年はしばらく黙っていたが、やがて鉛筆を手に取り、スケッチブックに何かを描きはじめた。
それは、ただのコーヒーカップの輪郭。影も色も、ほとんどない。
でも、その線は迷いながらも、確かにつながっていた。
「……描けました。ちょっとだけですけど」
「いい線ですね。続けた線は、かならず積もります」
青年は、まだ半信半疑のまま、それでも笑って帰っていった。
その日、棚に一枚だけ、新しいスケッチがそっと加わった。
“描けなかった日”に生まれた、小さな一歩のような線だった。
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