第18話:割れなかったマグカップ
夕暮れどき、“喫茶リセット”の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、少し荒れた様子の女性。
髪は乱れ、スーツの袖をまくったまま。カウンターに深く腰を下ろすと、無言で前を見つめていた。
「……いらっしゃいませ。よろしければ、お冷をどうぞ」
マスターの声に、彼女はわずかにまぶたを震わせてうなずく。
「……ごめんなさい。つい、勢いで入ってきてしまって」
「大丈夫ですよ。この店、急ブレーキのお客さんも歓迎ですから」
彼女はひとつ息をついて、ぽつぽつと話し出した。
「会社で……部下が失敗したんです。でもそれを私の責任にされて、上司に怒鳴られました。何も言い返せなくて……悔しくて……」
拳を握ったまま、彼女は言葉を探す。
「怒りが収まらないんです。でも、怒ってる自分にも、もう疲れました」
マスターはカウンター下から、淡いグレーのマグカップを一つ取り出した。
よく見ると、取っ手の付け根に小さなヒビがある。
「これは、落としても割れなかったカップです。傷ついても、まだ“使える”ものは、手放さなくていいと思っていて」
そっと温かいミルクティーを注ぎ入れると、ふわりと優しい香りが立ちのぼった。
「怒りも同じです。壊れたわけじゃない。ただ、ちょっと疲れてるだけです」
彼女は一口飲むと、顔をくしゃっとゆがめた。
「……おいしい。泣きそうなくらい」
やがて表情がほどけ、手のひらがゆっくりカップを包んだ。
「もう少しだけ、頑張ってみようかな。でも、また無理だったら……ここに来てもいいですか?」
「ええ。何度でも。その怒りも弱さも、ちゃんとあなたの一部ですから」
彼女は静かに立ち上がると、入口のところで振り返って言った。
「壊れてないって、言ってもらえてよかったです」
店の中に、静かな余韻が残った。
“割れなかったマグカップ”は、今日もゆっくり湯気を立てていた。
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