第16話:誰にも見せないノート
雨上がりの午後、窓から射し込む光がやわらかくテーブルを照らしていた。
そんな静かな時間に、“喫茶リセット”の扉が開いた。
入ってきたのは、細身の青年。
ジャージ姿のまま、フードを軽く取ってマスターに会釈をした。
「…こんにちは。前を通りかかって、気になってて」
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
青年は迷うようにカウンターに座り、メニューを開く。
「ココア、いいですか。甘いのが…ほしくて」
マスターがうなずき、静かにココアを淹れるあいだ、青年はリュックから一冊のノートを取り出した。
端が擦り切れたノート。中をのぞくと、びっしりと走り書きの文字。練習の記録、スケジュール、短い日記のようなもの――そして、何度も書き直された“目標”の文字。
「陸上、やってます。短距離です。ずっと全国目指してたけど、ケガして…今年は無理って言われました」
青年は苦笑しながら、ノートを閉じる。
「でも、やめるのは嫌で。誰にも見せないこのノートだけに、気持ちを吐き出してます。弱音とか、本当の目標とか」
マスターはゆっくりココアを置いたあと、そっとカウンター奥から、使い込まれた小さな辞書のような本を差し出した。
「この本のタイトルは『記録されなかった努力たち』です。ある陸上のコーチが書き残した言葉が、たくさん詰まっています」
青年はページを開き、一文に目を止めた。
> 「光のあたらないところで繰り返された努力こそ、本人の人生をつくっていく。」
彼はしばらく黙ってその言葉を見つめ、それから再びノートを開き、ココアの湯気の向こうにそっと新しい一文を書き加えた。
> 「明日は、走れなくても、前を向いていよう。」
マスターは静かに頷き、声には出さず「また来なさい」と言うように微笑んだ。
そして店の片隅、前に来たことのある女性客――第13話に登場した青年が描いた“途中の地図”を読んでいた女性が、ふと顔を上げ、青年のノートに視線を向けて微笑んだ。
“途中”の人たちが、それぞれのページをそっとめくり始めていた。
---




