第15話:ありがとうを言うために
土曜の昼下がり。
“喫茶リセット”の扉が開いて、少し戸惑いながら入ってきたのは、五十代の男性だった。
どこか落ち着かない様子で辺りを見回し、カウンターに腰を下ろす。
マスターが静かに「いらっしゃいませ」と声をかけると、男性は照れたように笑った。
「この店、知り合いに勧められて…というか、半ば押しつけられて来ました」
「素敵なお知り合いですね。お飲み物は?」
「じゃあ、コーヒーを。……ブラックで」
しばらくの沈黙のあと、男はカップを見つめながらぽつりと話し始めた。
「実は、妻が昨年、病気で亡くなりまして。今日は、命日なんです」
マスターはうなずき、黙って話を待った。
「……最後にありがとうって言えなかったんです。いつも“あとで言えばいい”と思ってた。でも、“あとで”は、永遠には来なかった」
カップを両手で包むようにして、男は続ける。
「だから、誰かに言いたかったんです。“ありがとう”って、どんなに遅れても伝えられるものなのか、試したくて」
マスターは静かに棚から一冊のノートを取り出した。表紙には『ありがとうノート』と小さく書かれている。
「このノート、言えなかった“ありがとう”を代わりに書き留めていくノートです。良ければ、ひとことだけでも」
男は少しだけ笑って、ペンを取り、ページに一文だけ書き込んだ。
> 「ごめん、そしてありがとう。君が笑っていた日々は、僕にとっての宝物でした。」
書き終えると、ほんの少しだけ目を潤ませながら、深く息を吐いた。
「……ありがとう。マスター。今日は、来てよかったです」
「また思い出したら、いつでもいらしてください。ありがとうは、いつでも歓迎されますから」
外に出た男の背中に、あたたかな春の風がやさしく吹いていた。
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