第14話:赤いスケッチブック
夕方、雨が降り始めた頃。
“喫茶リセット”のドアが静かに開いて、一人の女性が入ってきた。年のころは三十代前半、肩には濡れた傘、手には赤いスケッチブック。
「こちら、空いてますか?」
そう言って、窓際の席に座る。
マスターが紅茶を運ぶと、彼女はスケッチブックを撫でながら、ぽつりと呟いた。
「昔、美大を目指してました。でも、いろいろあって諦めて、今は事務の仕事をしています」
スケッチブックを開くと、中には若い頃に描いた色とりどりの風景画や人物画。
けれど、最後のページは白紙のままだった。
「この白紙のページ、いつか埋めるつもりだったんです。でも、気づいたら十年も経ってました」
マスターは静かに頷き、手元のカップに紅茶をそそぎながらこう言った。
「それなら、ちょうどいいですよ。ここには“途中のままでも大丈夫”な時間が流れていますから」
彼女は、ほっとしたように紅茶を一口。
それから、赤いスケッチブックを開き直して、最後の白紙ページに鉛筆を走らせ始めた。
マスターがそっと席を離れると、彼女は少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに言った。
「このお店、また来てもいいですか? 今度は、もっとちゃんと描けた絵を見せたいです」
「もちろん。絵の途中も、人生の途中も、大歓迎ですよ」
窓の外では、雨がやんでいた。
彼女の赤いスケッチブックは、初めて“今”を描き始めていた。
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