第1話:黒猫が来た日
その日、雨は午前からずっと止まなかった。
細い路地にひっそりと佇む喫茶店「リセット」は、いつものように静かに扉を開けていた。
「……いらっしゃい」
マスターとだけ呼ばれる年齢不詳の男が、カウンターの奥で新聞を閉じた。
入り口から入ってきたのは、黒い傘をさした高校生くらいの少女と、彼女の腕の中にいたずらっぽく鳴く黒猫だった。
「すみません、この子、どこにも行き場がなくて……ちょっとだけ、雨宿りさせてもらえませんか?」
マスターは何も言わず、小さくうなずいた。
少女はほっと息をつき、黒猫をタオルで包んで席に座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
「……コーヒーを飲める歳には見えないが、どうする?」
「えっと……ミルクティー、ください」
しばらくして、湯気の立つカップが運ばれてくると、少女は小さな声で礼を言った。
カウンターの上で黒猫が「にゃ」と鳴いた。
「……名前、あるのか?」
「……まだ、ないんです。さっき拾ったばかりで……でも、見捨てられなかったから」
マスターは何も言わず、静かにティーポットを置いた。
黒猫はくるりと丸まり、まるでずっとここにいたかのように眠り始めた。
「この店はね、忘れたいことがある人がよく来るんだよ」
「……え?」
「ひとりで背負ってきた荷物を、少しだけ下ろしてもいい。ここにいる間だけでもな」
少女はしばらく黙っていたが、やがてカップを両手で包み、ぽつりと話し始めた。
「……猫、飼っちゃダメって言われてて。でも……あの目で見つめられたら、置いていけなくて……」
「君は、やさしいんだな」
マスターの言葉に、少女は驚いたように目を丸くした。
「やさしいって、初めて言われました。わがままだって怒られてばっかで……」
「世間のものさしは、時に乱暴だからね」
その言葉に、少女の表情がゆるんだ。
やがて雨は止み、雲の切れ間から夕陽が差し込んできた。
黒猫がのびをして、少女の足元へ戻る。
「もう、行きます。……ありがとうございました。あの、また来てもいいですか?」
「もちろん」
「名前、決めました。この子、“リセット”って呼ぶことにします。……この店のおかげだから」
マスターは笑みを浮かべ、ひとことだけ返した。
「いい名前だ」
少女と“リセット”は、夕暮れの道をまっすぐ歩いていった。
マスターは、静かにカウンターを拭きながらつぶやいた。
「今日もまた、誰かが少し軽くなって帰っていったな……」
扉のベルが、優しい音を鳴らした。