海を弔う
一言で言えば「恋愛に失敗した男子と友達の女の子の話」です。
「一人でも、どうしても見にきたくてさあ」
と、彼は、はにかんだような顔をして、少し肩をすくめた。
明るい色に染まった少し長めの髪が、強い風に吹きつけられて揺れている。
傷んだ毛先は、陽の光が当たるとほとんど透明になって、時折きらりと光った。
私は、その横顔を見ているのが急に気恥ずかしくなって、用もないのに手元の資料にちらりと目を落とした。
墓苑の見学者用のアンケート用紙には、「佐々木海」と書いてある。
ササキウミ
ただ、本当はわざわざそんなものを書いてもらわなくても、彼のことならよく知っている。ここに書いてあることも、書いていないことも。
江ノ島電鉄線、長谷駅から徒歩6分。
鎌倉市長谷にある墓苑、長風苑。
海に近い山の中、潮風にさらされる墓石が並んでいる緩やかな坂になっている道を、二人並んでゆっくりと登って来た。
時折、ピーッと甲高い声が頭上を飛び交っている。それに合わせて影が落ちるのを、歩きながらウミがまぶしそうに見上げた。
「なんか、久しぶりに聞いた」
「トンビ?」
「そう」と言ってウミは頷いた。
ウミと私は、小学校から高校まで同じ学校の同級生だった。
性別も、性格も、趣味嗜好もまったく違うのに、妙に馬が合った。
高校を卒業して、ウミは地元を離れ、私は地元に残って、この長風苑に勤め始めた。住むエリアが違ってしまった今となっては、顔を合わせる機会は少なくなったけれど、連絡だけは、なにくれとなく取り合っていた。
とはいえ、
『多分、マツナガという名前で墓地見学の予約してたと思うんですけど、二名で』
見学予定者が二人から一人になった、という電話が昨日あったとき、その電話の相手がウミだとは、もちろんのこと気がつかなかった。今にして思えば、聞き覚えのある声ではあったのだけれど。
手帳と社用パソコンのスケジュールには、二週間も前から「11時・松永茂治様」と書かれていた。
最初の予約のときも電話だった。
たしか、その時の電話の声は、もっと年配の男性のものだったはずだ。
50代、60代くらいだろうか。
ぶっきらぼうな調子で、樹木葬の見学をしたい、と言われた。
見学の日取りを決めた後、お一人で来られますか?と聞いたら、少し考えてから、
「二人」
と松永茂治というその人物は言った。
だから、てっきり中年夫婦が一緒に見に来るのだろうと思っていた。
そういったケースが多いのだ。
子どもがいなかったり、いても、遠い所に住んでいるとか、迷惑をかけたくないとか、そんな理由で、個人の墓地ではなく樹木葬に興味を持つ中年過ぎ、あるいは高齢の夫婦。
合葬ということであれば、合同墓も選択肢としてはあるのだが、合同墓だと味気ないとか、樹木葬のほうが明るい気がするとか、そんななんとなくのイメージで、樹木葬は一定数の人気を得ているのが、昨今の墓事情だ。
ただでさえ、若い人が一人で来ても珍しい気がするのに、それがまさか、ウミが現れるとは思っていなかった。
ウミのほうではこの墓苑に私が勤めていることはわかっていたわけで、予約した見学者が来たからと迎えに出た私が絶句しているのを、にやにやと笑いながら、
「予約した松永ですけど」と言った。
松永という人物と、ウミがどんな関係なのかは聞くことができなかった。
予約者用の受付カウンターで、私が差し出したアンケート用紙を律儀に埋めているウミはあっけらかんと何も考えていないようで、その様子がかえって張りつめて見えて、私は何も言えなかった。
ただ、ウミが今付き合っている人というのが、年上の同性だ、ということをかなり前に聞いたことがあったのを、学生の頃のままの右肩上がりの書き癖があるウミの文字を見ながら思い出した。
「本当に海が見えるんだねえ」
坂道を上りきったところで、立ち止まったウミから、感心したように朗らかな声があがる。
それが売りだからね、と思いながら顔を上げて頷いた。
視線の先にはウミが感心した通り、相模湾が広がっている。
見慣れたいつもの海。
ウミにとっては久しぶりだろうか。天気が良いおかげで、水面はキラキラと陽の光を受けて光っていた。春先の水平線はぼんやりとしていて、空と海の境は青の濃淡が曖昧に溶け合っている。
「もっと、チラッとしか見えないのかと思ってた」
独り言めいた調子で呟かれた言葉に、思わず苦笑する。
「ごめん、つい本音が」
「謝る気が無さ過ぎる」
「ごめんて」
ウミは悪びれた様子もなく言うと、そのまま視線を水平線に向け動かなくなった。
「樹木葬は、そもそも自然回帰的な視点のある埋葬方法ですから、この景色は皆さまからご好評いただいております」
私が、繰り返し使い慣れているセリフをわざとらしく口にすると、こちらを見向きもしないままでウミはかすかに笑った。
きれい、と彼の唇が動いたのが見えた。声は聞こえなかった。
海沿いの町育ちの私たちにとっては珍しくもないだろう景色だというのに、初めて目にしたかのように、そのまま見入っている。
放っておいたらいつまでもその姿勢でいそうに見えて、
「はい、その景色もいいんですけど、こちらが」
と、声を張り上げる。
ウミが一体どんなつもりで今日ここに来たのかは知らない。年上の恋人のために来たのか、そうではないのか。ウミが何も言わないから私にはわからない。
ただ、一応は景色を見に来てもらったわけではないのだ。
私の顔を見に来たわけでもない。
理由は知らないけれど、彼はうちのお墓を見に来たのだ。わざわざ予約までして。
私は右手をあげ、声に振り返った彼の視線を促した。
「樹木葬のエリアです。まだ新設されたばかりで、それに伴う区画整理がちょうど終わったところですので、木を植えるのはこれからですが、常緑樹である松と、早春から咲き始める梅を植える予定です」
ここまでを一息に言いきった。
ここは一気にまくしたてないといけない、大概が期待外れの顔をされるから。
長風苑の樹木葬は、駅にも大きな看板を掲示して、宣伝こそ大々的に行っているけれど、じつはまだ始まったばかり。
正確には始まっているとは言えないかもしれない。
納骨は、まだ誰もされていない。
樹木葬のエリア自体は、坂道の一番上に当たる開けた場所に設けているが、まだ、土台の石が組まれただけ。かろうじて先々週、土が運び込まれはしたものの、木は植わってはいない。
木の根のない土は潮風に巻き上げられて散ってしまい、それを防ぐために、今はブルーシートで覆っている。
まるで映画の中の事件現場のようで、なんだか不穏だ。
墓地のどまん中で、不穏も何もあったものではないけれど。
正直に言ってしまえば、要は見栄えが悪いのだ。
あなたの骨はここに埋められますよと、ブルーシートの地面を見せても、そそられる人はあまりいないだろう。
どうして木を植えてから宣伝してくれないのかと、直接見学者の反応に晒される営業の立場としては思う。
「事件現場…?」
「いやそれは言ったらだめなやつだから、ほんとに」
眉間にしわを寄せた私の言葉に、ウミが小さく噴き出した。
「いやこれはないよ、素敵じゃないじゃん! 景色は悪くないけどその分印象が悪い。大体樹木葬って言ってんのに木が生えてないし!」
「これから植えるんだもん!」
「ブルーシートって!」
「これ大事なんだよ? ブルーシートがなかったら、この風で土ぜんぶ飛ばされる」
「そうかもだけど、だからってさあ!」
げらげらと笑い出したウミに、私のほうもムキになってしまって、接客モードのメッキはあっという間にはがれた。
ピーッと甲高い声で、またトンビが鳴く。
海から勢いよく風が吹いた。腕に抱えていた資料が飛ばされそうになって、私は慌てて資料を押さえつけた。
手の下で、紙束はバサバサと音を立てている。まるで生き物を捕まえているみたいだ。
樹木葬の土にかぶさったブルーシートも、ぼふっという空気のこもった音を立てて、大きく膨らんだ。
そのまま飛んで行ってしまうのではないかと、一瞬ヒヤリとしたが、ブルーシートは飛ばされることもなく、突風がおさまると、また辺りはしんと静かになった。
グライダーのように翼を広げたトンビはゆったりと空を飛んで、海へ向かっている。
「まあでも、良い場所だよね」
「そうでしょ」
「ここ、買っちゃおうかなあ」
到底本気とは思えないような声色で、ウミはぼそりと呟いた。
「は?」
「自分用に」
「自分用?!」
「ここを今日、あんたから買ったら、あんたにボーナス的なことはあるの?」
「まあ、営業なんで、売り上げ実績は査定対象ではあるけど、え、それ理由で買ってくれるの?」
「いや、あんたのためってわけじゃないけど。なんかさあ、こっから見える景色がやっぱりいいなあと思って」
ウミの隣に立って、視線を改めて海へと向ける。
そうだろうか。いい景色だろうか。
ぼんやりとした水平線、きらきら光る水面、上昇気流を捕えて揺れるトンビ達。
「うちらには珍しくもなんともない景色じゃない?」
小学校でも、中学でも、高校でも、私はいつもこの海と、隣のウミを、目の端に常に入れて過ごしていた。
国道134号線のガードレールを蹴飛ばして歩きながら、
防波堤の上によじ登って大人に怒られながら、
ウミの漕ぐ自転車の後ろにまたがりながら。
「ずっとここにいるあんたにはわかんないかもしんないけど、改めて見るといいもんだよ」
「急にマウント取り出すじゃんね」
「マウントかあ? これ」
ウミを見上げると、顔をくしゃっと歪めている。口元はニヒルに片端だけ上がっていて、自分が知っている表情とは違うなと思った。
「ウミがここを買うとして」
「うん」
「今日いらっしゃるはずだった、松永様のご意見とかは」
「松永は関係なくなりました。僕が松永に振られて、別れたんで」
投げやりなウミの言葉に、私は身体をこわばらせた。
ウミは私を見下ろすと、いたずらめいた笑みを浮かべた。作り物めいた顔だ。目の奥が水分を含んで光って見える。
「は、え、あれ、やっぱり、松永ってウミが前言ってた年上彼氏だったわけ?」
「ひどいと思わん? 勝手に病気になって、死ぬかもってなった途端、元奥さんと子どもに連絡とって、あいつ。僕に内緒で。元の家族に取られちゃった。こっちは死に水取ってくれって頼まれたから、覚悟決めてたのに」
まくしたてられた言葉の情報量が多い。
久しぶりに会った友達の彼氏が死にかけていて、墓を見学に来なくてはならないくらい具体的に死に向かっていて、その墓がよりによって自分の職場で、そんな状況で友達本人は死にかけの彼氏から良くない振られ方をして、ていうか、元奥さんと子どもってなんだよ、それは。
「どう慰めたらいいか見当がつかない」
「あんたさ、もうちょっと頭で考えてから、口に出して言いなよ」
ウミが呆れたような声で言った。
考えたよ。
考えた上で、何も思いつかないよ。
「今日だって、あいつが見に行きたいって、予約取ったんだよ」
「知ってるよ、松永さんの予約取ったの私だから。二人で行くって、まさかウミが来るとは思わなかったけど」
「二人じゃねーじゃん馬鹿野郎」
そう言うと、今日ここまで笑った顔しか見せないでいたウミが、ぼたぼたと大きな涙をこぼし始めた。
そうだ、こういう泣き方をする奴だった。
全身で悔しさを表現するような、漫画みたいな泣き方をする。
あんまり仲が良すぎた高校時代、私と付き合っているのかと聞かれたときも、ウミはそうやってぼたぼたと泣いていた。
聞いてきた男子がウミの好きな子だったから。
私はそうやって誰かを好きになって、気持ちが通じたり通じなかったりして、そのいちいちに泣いたり笑ったりするウミの気持ちが全然わからなくて、いつもただ見ていた。
私たちは、あの頃から何も変わらないみたいだ。
「海がきれいに見えるとこだから、おまえがいつもそばにいてくれるみたいで淋しくないよって言ったんだよ、くっさいひっどいセリフでしょ」
びっくりするほどくさい。
悪いけれどぞわっと鳥肌が立った。
意味が分からない。ていうか、死にかけててもそんなことを言えるのか人間て。
すごいな人間、という感心はするけれど、ウミの趣味はどう考えても悪いとしか思えない。
「くさい、けど、それ言われて嬉しかったりしたわけ」
「まあ、多少」
「え、趣味わる…。ちょろすぎでしょ」
「うっさいなあ」
泣き顔のままで、ウミは心底悔しそうな顔をする。
「いいよいいよ、そんな男がこの期に及んでくさいセリフ吐くのに使ったこんな墓買わなくていいよ。自然回帰だなんだって謳ったって、松も梅も違う場所からわざわざ植え替えるし、一度燃やした骨が土に還ったりなんてぶっちゃけしないし。だって燃やして炭素化してんだよ、どうやって土に還るんだよ。どうせこんな風に事件現場みたいだし、ブルーシートは不穏だし、全然ちっとも素敵じゃないよ」
開き直って思っていたことを全部ぶちまける。ついでとばかりに。
「ぎゃあ! もう、なんでそんなにぶっちゃけるの! いろいろ台無しじゃん!」
案外ロマンチストなウミが叫んだ。
「ほんとのことじゃん」
「ほんとのことでもなんでも言えばいいってわけじゃないんだけどっ!!」
わああっ、とウミは水平線に向かって挑むように大きな声を出した。
今はそんなに泣きわめいていても、
どうせウミはまたどうしようもない趣味の悪い男にすぐ引っかかるし、
私はその気持ちがわからないし、
この景色もウミが出て行こうが帰ってこようが、きっとずっとこのままだ。
江ノ電の長谷駅はいつだって観光客で混んでいるし、
134号線は海沿いを走るところだけ、ずっと渋滞をしている。
大きな声を出して、どこか満足げな顔をしているウミの隣で空を見上げる。
「ウミ、ひどい顔だよ」
「うっさいなあ…。仕事何時までなわけ」
「16時半。ご飯食べに行こうよ」
「最初からそのつもりだよ」
私たちはどうせいつまでもこの調子だ。
見上げた空の遥か上、高い高いところを、ゆったりとトンビが鳴きながら飛んで行った。
いろんな願いをこめて書きました。
趣味の悪い恋愛で失敗し続けてもいいし、
色恋沙汰にまったく興味のない人生をひとり送ってもいいし、
同姓を好きになってもいいし、
年がうんと違ってもいいし、
平均的って言われることにこだわっても良いし、
冒険心を持ってドラマティックな関係に憧れまくってもかまわない。
ただ、望んでいるのと違う結果になったときに、
マジでくそくらえだよね!
って思いっきり相手の悪口言って、
自分、悪くないよね!!
って確認して、
泣いて、笑って、美味しいものでも食べて、できればお風呂に入って、あったかいとこで寝て、
そして、
すぐにじゃなくていいから、
ゆっくりでいいから、
いつか、元気になってくれ、という願いがあります。
みんな元気でいてくれ。
頼むから。