プロローグ
虹は綺麗だ
誰にも触れることが叶わないから
白き龍がそこにいる。
威厳を折り畳んだような翼を携え、しかしその眼差しは柔らかくこちらを見つめている。
そして彼女は言った。
「これで、さよならね。ありがとう────」
彼女がゆっくりと離れていく。
最後に言った言葉は聞こえなかった。
声が小さかったのか、自分が泣き腫らしているからか、今となってはどちらかもわからない。
ただ、彼女がゆっくりと離れていく。
私の腕の中に赤ん坊の声を残して────
黒き龍がそこにいる。
その先がどこまでなのかわからない程の暗き鱗に覆われ、しかしその眼差しは見定めるようにこちらを見つめている。
そして彼は言った。
「これが、始まりだ。往け────」
彼がゆっくりと近づいてくる。
最後に言った言葉は聞かないことにした。
これからのことに対して雑念になるからか、自分の覚悟が揺らいでしまいそうだったからか、今となってはどちらかもわからない。
ただ、彼がゆっくりと近づいてくる。
私の手に輝きを与えながら────
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目が開く、朝だ。
久しぶりに不思議な夢を見た。最近はロダン様に吹き飛ばされる夢やロダン様に蹴り飛ばされる夢、ロダン様に投げられる夢やロダン様が物凄い速度で迫ってくる夢…
「うわぁあああ!?」
数多のロダン様恐怖エピソードが蘇り、反射で身体が起き上がる。最悪の目覚めだ。
とりあえず今日がまだ始まったばかりだということを思い出し、着替えて下の階へ向かう。既に朝ごはんのいい匂いが漂ってきている。
「おはよう、お母さん」
「早いわねヴェル、おはよう。悪夢でも見た?」
「あ、えっと…まぁ」
「あっはは!変な声が聞こえたからそうだと思った!鍛錬行く?」
台所で朝食の準備をしているのは母であるソル・スカーレット。背が低めなので胸あたりから上しか見えていないが、手元ではいつも通り恐ろしい速度で包丁が食材を切り刻んでいることだろう。
「うん、フォルト山で少しやってくるよ」
「気をつけていってらっしゃい」
リビングの柱に立て掛けてある鍛錬用の木剣を手に取って家を出ると、雨上がりの湿気た香りが鼻腔から体内に入ってくる。
『自然の顔色を伺って戦術を執れ』の教えを思い出しながら、フォルト山を目指して走り出す。
「ソルー?いるかしら〜??」
「いるよ〜レッテ?」
「朝からごめんね〜おじゃまするわ」
「あ、もしかしてこの間の?」
「そう!ちょうど納品したてのパープルベリーを仕入れたの!ちょうど旬だから実が…ほら!」
「わ、凄い!ジャム二瓶くらい作れそうじゃん!いくら?」
「何言ってんのよ、私たちの仲じゃない!お得意様でもあるんだからもらってもらって!!」
「あ、ありがとう…ほんとにいいの?」
「当たり前〜あ、でも今度またバーでイベントやろうと思ってて…ね?」
「はぁ…レッテのそういうとこほんと敵わないな〜じゃあ歌で返すね」
「やった〜!ソルってば話わかるぅ〜!今日もヴェルくんはお稽古?」
「ううん、ご飯できるまで山で鍛錬だよ」
「ほんと真面目な子に育ったわね〜いっつも愛想良くしてくれるし癒されてるわ〜」
「そうなの?うちじゃ普通の子って感じだし全然手もかからなくて…ちゃんと親としてやれてるのかなって心配なんだ」
「あの子の母親はソル、あんたでしょ?それは事実なんだから自信持ちなさい!」
「うん…最近はロダン様との修行以外でもほとんど鍛錬ばっかりしてて…やっぱりあの子…」
「…八年前のことを覚えてるんじゃないかって?」
「それだけならまだいいんだけど…もし…」
「ソル、考えすぎよ。母親としてあの子と自分を信じてあげなさい。私たちは止めることはできるけど、救うことが出来るのはお母さんのあんただけなんだから」
「レッテ…ありがとう。やっぱりライノとリノのお母さんは強いなぁ」
「あのヤンチャどもを育ててたら勝手にこうなっちゃっただけよ。さ、お昼はスフレさんのとこでも行きましょ!」
「うん、スフレさんの紅茶落ち着くよね〜」
ロダン様から受けている一通りのトレーニングメニューを終える。体のスイッチは完全に入っているが、理想は起きた瞬間に80%の出力で戦闘が出来るレベルだ。
"傭兵ならいつどんな障害も、依頼のためなら排除しなければならない"
傭兵という不安定な業界においても一目置かれる存在のフェートという集団を率いるカイ・ロダンもまた、かつて傭兵業界に名を馳せた傭兵だった。【鬼槍】の異名で戦闘になれば大暴れし、設立後に勧誘を受け所属していた【傭兵斡旋組織エレイン】の序列にて1桁ランカーだったという噂だ。エレインの序列、エレインナンバーはそのまま傭兵としての信用度や依頼料に直結している。それだけ世間からも存在を認められていることの証だ。
現在はここフェート村に戻り、頭領として魔物討伐専門のフェート傭兵斡旋を初めとした立場を務めている。自分はそんな伝説的な人に一人で師事できることを幸福だと自覚はしている。
だがそれとこれとは別だとも思う。
「ふう…バレてないといいんだけど」
自分なりに必要だと思った個性。
相手から驚異だと捉えられる武器。
ロダン様からは師事を始めた七年前からずっと基礎的な戦闘訓練しかしてもらえていない。もちろん基礎が何より重要であることは重々承知しているが、それにしても七年だ。毎日の鍛錬も欠かしていない自分からしたら未だ身についていないということはないだろう。
つまりロダン様にとって、まだ自分に応用的な訓練を行わない理由があるのだと思う。
だからもう我慢ができなくなって、自分なりの武器を探すことにした。
武器整備の学びのために手伝わせてもらっているフェートの武具店で様々な武器を触る時に思いつく戦技の型をイメージし、最も身体にしっくりくると確信を得た戦技は血の宿命とでも言うのかと思った。憎くてたまらない人と同じだったからだ。
とにかく自分固有の戦技を決めた俺は麓の町におつかいに行った時に蔵書館に行き、その戦技に関連する書物を見境なく読み漁った。帰りが遅くなるとお母さんやロダン様に勘づかれてしまうからじっくりは読めなかったが、型や理論を知れればあとはこの身に流れる血が上手く仕上げてくれる。
そんな水面下での小さな一人クーデターを去年から始め、約一年が経った。正直ロダン様には体運びのズレなどでバレてしまっているかもしれないが、何も言ってこないのであれば止める理由はない。
「これで打ち合える…そしたらあとは殺すだけ」
この磨き上げてきた剣はただひとえに
「ウェイド・スカーレットを」
少年の心に父を斬る炎を焚きつけていた。
【フェートの少年】
ヴェル・スカーレット 15歳
ウェイドとソルの間に生まれた少年
実直で人当たりもいいが、胸の内には激情を秘める
好きな食べ物はピーマンの肉詰め