06 ぽっちゃり令嬢、湖の精霊に魅入られる
そうして山賊どもが、もさもさ駆けつけた先で見たものは、彼らの想像を絶していた!
暗い湖面の波打ち際、すれすれに小山のような黒いもりもりがある。
はじめは岩にも見えたのだが、近づくにつれ、それが毛に包まれた巨大なけものであることは間違いなくなった。
その十歩ほど手前、がたがた震えながら必死に立っているだけのウレフが、振り向いた。
「お、親分っっ。ドラちゃんが、あそこに……!」
コシュクアは半泣きになりそうな若者の右肩を、がしっと掴む。
「何じゃあ、ありゃあっっ」
「特大級の水棲馬かっ?」
「……いや、むしろ熊でねえのか?」
背後で子分たちがうろたえる。
「熊なら何とかなるぞ……」
「まずは、俺っちの毒矢に任せな」
「待て、熊じゃねぇ」
外套下、腰のかくしを探りかけたレゴロの腕に触れて、コシュクアはけものを凝視する。
彼はこれまでに何度か、遠目に水棲馬を見たことがある。大陸最大獣の阿武熊が、ほんとうの空の下をのびのび闊歩しているところも、よく見ていた。
けれど自分が今目にしているものは、そのどちらともかけ離れているのだ。
ぼんやり白い、フォドラの髪がわかる。
こちらに背を向け浜辺に立って、小さく幅広な娘は巨大なけもののすぐそばにいる。
コシュクアは脇が冷たくなるのを感じつつ、右手のたいまつをウレフに押しつけた。
「……てめぇら、静かにしとけ」
そろりそろりと、フォドラめざして歩み寄る。
「……嬢ちゃん」
低く声をかけた。
娘はぴくりとも動かない、立ち尽くしている。
「フォドラ」
背後にたどりついた。かがみ込んで、その耳元で囁いたが、やはり反応はない。
間近で見ると、フォドラが顔を突き合わせているのは、牛だった。
その辺の毛長牛、雄牛の三倍もあるような、立派すぎるやつである。……牛であって牛ではない、べつのもの。
全身の毛がよだつ気がしたが、コシュクアは牛の顔をまっすぐ見た。
おだやかな闇色の黒牛。じつに男前の、やや老いた雄牛も、コシュクアをゆっくりと見た。
「……福ある夜を」
牛はのっそりと、まばたきをする。コシュクアの挨拶に応えたのかもしれない、紳士だ。
そこで恐る恐るフォドラの顔をのぞき込むと、優しくうつろに微笑して、とろんと牛に見入ったままだ。
コシュクアは外套の裏、かくしを探る。引き出した布包みをもどかしげに開き、そうっと牛の鼻先に持って行った。
「……見逃してやっておくれ。何も知らない、こどもなんだ……」
牛は、コシュクアを見つめた。
ほんの一瞬だったのかもしれないが、コシュクアには一刻も二刻も、じいっと見られていたように思える。じと……脇汗の冷たさだけが現実的だ。
だしぬけ、牛はぺろんと舌をまわした。
たったひと舐めで、コシュクアの手のひらから包みがさらわれる……、もしゃ、もぐもぐ。
震え出しそうなのを面子の力でぐぐぐと押さえ、コシュクアはフォドラを後ろから両腕で抱きこむ。そろそろ……、後じさった。
牛は咀嚼を続けている。
ぽよぽよ幅広い小柄な娘を、そうしてどんどん後ろに引きずっていった。
牛はしばらく、そのまま汀に立ち尽くしていたが、おもむろに体の向きを変えると、じゃぼじゃぼと小さな泡音をたてて、湖面を進んでいった。
やがてその泡も消え、さざ波が静かにたなびく。
がく、と腕の中のフォドラが落ちこんだ。
地べたにへたり込んだ娘の前に回り込んで、コシュクアはその顔を両手ではさみ、持ち上げる。
「おいっ。おいおいおいっ、フォドラっっ」
ぱちぱちっと目をしばたたかせて、娘はきょとーんとしている。
ようやく我に返ったらしい。
「あらら……まあ、コシュクアさん?」
そうして続く、うれしげな笑顔! いつのまにかのぼっていた、月の投げかける光が、その丸ぽちゃ顔を明るく照らしている。
「大丈夫なのか、お前!?」
ばたばたばた……二人のそばに、子分どもが走り寄ってきた。
「無事なんか、嬢ちゃんッ」
「けがはねぇか!?」
ぱしッッッ!!
小さな両手が、娘の頬にあてられたコシュクアの手の甲に重なった。
「牛さんと、お話してたんですの!」
「話ぃ?」
相手は精霊である! 下手をしたら体ごとたましいを喰われていたかもしれないのに、何と言うのんきな態度であろうか!? フォドラの笑顔に子分どもはまたしても震撼した、ものを知らぬにもほどがある!
「ええ、コシュクアさんがどれだけすてきかって話。うんうんって、優しく聞いて下さいました!」
う・わ――!!!
全員が、がくんと脱力した。ばきん、書いてる人も硬筆の先っちょを折ってしまった。とほほ。
「お前ねぇ! 俺が乾燥はっか持ってなかったら、どうなってたと思うんだよう!?」
コシュクアも、そこで我慢の限界であった。
「お供えで見逃してもらえなかったら、今頃あいつの胃袋ん中で、反芻されてたんだぞうー!! フォドラぁぁ」
ぎうー!
長ーい腕で幅広娘を抱きしめた、かわいいとかいとしいとか、そういうすてきな感情のせいではない。親分は気が抜けそうだった、山賊だっておばけは怖い! 何かにしがみつかなきゃちびりそうなくらい、おっかなかったのである!
「ドラちゃぁぁぁん」
「ひえええええ」
ノワとウレフも、次々にフォドラの背中にくっついた。むしろ一番怖かったのは彼らである。
輪郭を波線描写にして恐れおののく男どもの中心で、わけのわかっていないフォドラはぶっちぎり幸福でしかない。
――きゃー!! コシュクアさん筋ばってるぅ、いい匂いー! でもって初めて、名前呼んでもらっちゃったぁぁぁ。
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ちなみに彼らが遭遇したのは、水棲牛と思われる。人間の女の子をなんぱすることはあるが、水棲馬のように取って喰うことはない。暇つぶしにいそしむ、おだやかな精霊と言われている。(注・ササタベーナ)