10 ポエミー親分、没原稿を読まれて絶賛狼狽中
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どよりと重く、黒々と闇の濃い夜が谷底を覆う。
星々と三日月は、そそり立つ岩壁に丸く切り取られた天空のはるか高みで柔らかく微笑んでいるけれど、その輝きは闇ふかくに眠るあわいの森陰には届きにくい。まさに山賊の闇夜である。
腹をくちくし、ついでに酔っていい気分になった子分どもには、そのまま各々の岩棚小屋で高いびきをかき始めたのも多かった。意外に静かだ。灯りのもれる窓はあまりない。
そのうちひとつが、親分専用の岩棚住まい。
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「……」
吹きすさぶ風の音。ずっと遠方で吠えているけもの。
静寂なる朝の湖面をやぶって飛びたつ、鷺の脚の細さするどさ……。
彼が見ていたい世界、文にかえてあらわしたいのは、そういう風景だった。
里から離れた荒れ野原が色を変えてゆくさま、ちょっとした温度の差はあってもそこは概してつめたく涼しい。ぬくもりは要らないのだ。
「……」
外套は椅子の背に、いまコシュクアは麻衣一枚くつろいだ軽さで、自分の岩肌小屋の中、使い込まれた机の前に座していた。すぐ左の書棚には低めの天井間際まで、筆記布と皮紙を入れた木箱が詰めこまれ、ごたごたなりの秩序をつくり出している。
簡易炉の火と蜜蝋の灯りとに照らされて、親分はぼんやりと、目の前の筆記布の白さを見ていた。
硬筆は箱から出して置いてあるが、墨壺のふたは閉じたまま。
書きたかったことがあるはずなのに、そのしっぽがつかめないような……。いいや、胸のうちはむしろ空っぽなのかもしれない。今日はだめっぽいな、と思った時。
こん、こん……。
控えめに扉の叩かれる音がして、そちらを見る。
「何だよ」
「……すみません。あのー」
ぎょへッと立ち上がりかけた時、フォドラはもう扉を開けて、その幅広い体を半分、内側へ入れてしまっていた。
「何してんだこらッ。厨房の後片付けが済んだんなら、グミエの小屋でとっとと寝ろって言ったろうがっ」
「はい、そうするところなんです。けれどこれを、かまどのたきつけ貯めの中で見つけてしまったので……」
小さな手の中に、数枚のよごれた筆記布が握られている。
コシュクアは、胸の奥をぎりっと詰まらせた。
「他の方はほとんど書けないと仰るし、これはコシュクアさんのものでしょう? まちがって捨ててしまったんじゃないかと心配になったので、確かめたかったんですの」
「それは、……いいんだ。ただの書き損じだから、燃やしちまっていいんだよ。さあ、さっさと捨てに行っておくれ」
――まさか、……まさか、まさか。くそッ、……こいつは……イリー貴族だ。正イリー語は読めて当たり前……!!
動揺を隠すため、笑って言ったコシュクアを、フォドラはじいっと見つめ返す。
「燃やして、灰にしてしまうんですの?」
「ああ」
「こんなにすてきな、……すばらしい詩なのに?」
コシュクアの顔から、まがい物の笑みが抜け落ちた。
娘も笑っていない。ぽっちゃり丸い顔、上気して赤い頬が、炉の火に照る。大きく見ひらかれた瞳が、熱に潤んでコシュクアを射抜いてくる。
白月の萌えでる若草、陽光をはね返す樫葉、熟し枯れくずれる麦の茎、氷気に立ち向かうやどりぎ……。
……彼は多くの緑を知っている。知って言葉にかえてきたはずだった。けれど今、自分のすぐ前にあるフォドラのみどりの双眸を、コシュクアは言いあらわすことができない。何に例えることも、かなわない。
初めて見るみどり色でしかなかった。
「……読んだのか、よ」
しゃがれ声が出た。
こくり、娘はうなづく。
「森のなかに、荒れ野のまっただ中に、ふみこんでいく気持ちがしました」
「……」
「そうして、そこにずっといたくなりました」
尊敬する無名のイリー詩人の真似をして、ひねった文体で書いてある。本当のところはわかっちゃいねえだろう、とコシュクアは身構え続けて決めつけた。
「……清書は別にとってあるんだ。それは反故だから、いらない」
「ああ、そうでしたの」
ふわり、と安堵を声ににじませて、フォドラはようやく微笑んだ。
「親切な貸本屋さんが、ご近所にいらして。母さまに内緒で、時々いいのを読ませてくださったんです。パントーフルという人の詩が、わたし大好きでしたの」
今度こそ、喉がつまった。コシュクアは息ができなくなる。
「湖のすがたは、パントーフル先生の詩に教えていただいたんですの。その時と同じで、フォドラはコシュクアさんに森を教えてもらう気がします」
――湖……。まどかなる、みずのうみ……。俺のばか、もっと早くに気づいておけ……!!
「まろきやどりぎ、白冬のぼんぼり。……フォドラの全然知らないことです」
うふふ、と娘は柔らかく笑った。
「だから、知ってゆきたいんですの。コシュクアさんの森のなかに、フォドラはいたい」
見下ろしながら、コシュクアは唇を噛んでいた。痛いほどに。
それを無理やりほどきながら、溜息を押し出して――男は言った。
「お休み、フォドラ」
「ええ。お休みなさい、コシュクアさん」
屈託なく言って、娘はくるりと半開きの扉をくぐってしまった。それを閉めるでもなく開けるでもない、……コシュクアは立ち尽くす。
森の中のことなら知り尽くしているはずの、山賊親分は震えていた。
彼のうちで、心がふるえていた。
娘の双眸、あんなみどり色は知らない。――どこにもなかった、未知のみどり色を見てしまったその衝撃に、ふるえていた。