⑥主従関係
(けいこ、しないと……おぼえられない)
……エレナは森の野営地で毛布にくるまり、夢を見ていた。その夢の中で彼女は幼い頃の姿で、今では習熟し終えている、野獣を従える為に必要な訓練の最中だった。
幼いエレナは、村に設えてある防護柵の中で、村には居なかった筈の、自分より遥かに大きな身体の虎と対峙している。しかし虎の身体は鎖で繋がれていて、エレナに襲い掛かる心配は無い。だが、その鋭い視線は彼女の動きを的確に捉え、身体はいつでも即応出来る姿勢を維持していた。
(……このトラ、しってる!)
けれど、頭の中身は現在のエレナであり、夢の中特有の何となく先の展開が判っている状況なので、子供の筈のエレナは臆する事なく虎へと近付いて行った。
するとどうだろう、獰猛な筈の虎の方がきょろきょろと首を巡らし始め、鎖を引き摺ったまま柵の際まで後退りしていく。
(トラさん! こわがらないで!!)
幼いエレナが近付くと、虎は少しだけ身を震わせてから、ヒクヒクと鼻を動かしながら立ち止まり、様子を窺う。暫くしてエレナに害意が無い事を悟り、虎はブフッ、と鼻息を漏らしながら立ち上がった。
(……おいで?)
エレナの誘いに恐々と近寄ると、虎は大きな顔を擦り寄せて、ヒゲを彼女の顔に当てながらゴロゴロと喉を鳴らす。
(ハンス……さん?)
唐突に名前が浮かび、虎に向かって問い掛ける。すると虎は言葉を理解したように目付きを変えてから顔を離し、
【……詳しい事は、俺にも判らん】
と、人の言葉を放つと四肢に力を込め、するりとエレナから距離を保つ。
(……まって!)
虎が居なくなりと思い、エレナが叫ぶ。しかし、虎は距離を保ちその場から動かず、やがて不意に現れた村人達に双方が引き離されるまで、互いの目を見たまま不動の姿勢を崩さなかった。
……
(……朝? あ、夢か……)
夢が遠退き、次第に意識がハッキリしてくる。
エレナが目覚めて毛布の下から身体を引き出そうとするが、竈の反対側に在るハンスの毛布には誰も居なかった。
「……荷物は、そのままね。じゃ、何か探しに行ってるのかな」
誰に聞かせるつもりもない呟きだが、エレナはハンスが自分と行動を共にする理由について考えてみる。
きっかけはともかく、見ず知らずの土地に放り出されたハンスにとって、自分は何らかの道標位にはなる。次の街まで連れていけば、後はどうにでもなるだろう。
……ならば、その先ハンスはどうする?
昔、何かの折に「人を手懐けるには金か情が要る」と聞いた気がする。今の自分の手元に金は大した額は無い。村で貯めた金は装備を集める為に大半が失われたし、ハンスの分は村人達から寄付された物で賄えたが、全て揃った訳でもない。次の街に着いたら早々に金策を練らないと、別の祠を探す事さえ覚束無いだろう。
しかし、ハンスが何かと義理堅い性格だと言うのは判っているが、いつまでも恩義だけで動くとは思えない。
(……残ってるのは、【情】なんだけど……)
エレナは自分の発育途上の身体に視線を這わせ、溜め息を吐いた。たかが十五の娘に何が出来るものか、そう思うだけで失望感が広がる。まさか、自分がそれ以外の事でハンスの助けになるとは想像も出来ないし、彼の方から懇願してくるなど、更に可能性は低い。
もぞもぞと毛布にくるまったまま、先の不安に苛まれていたその時、森の離れた場所から突然、強烈な破裂音が鳴り響き、エレナの鼓膜を揺さぶった。
「きゃあああぁーーっ!? な、何の音!?」
彼女は毛布をかなぐり捨て、音の後に遅れて到達した森全体を震わせる衝撃波に恐怖しながら、ハンスに何かあったのではないか、と思い、立ち上がると音の発生源目掛けて走り出していた。
エレナがハンスの姿を見つけたのは、森の木立が疎らな窪地の中だった。
「ハンスさんっ!! 大丈夫ですか!?」
滑らないように足元を確かめながら、彼女が呼び掛けながら近付くと、何故かハンスは慌ててベルトを締め、上着の捲れを直しながら振り返った。
「あ、ああ……問題無い。いや、あるって言えばあるんだが……」
そう言葉を濁しつつ、ハンスは少し離れた場所に転がる大きな倒木を見て、曖昧な笑みを溢す。
「……そ、そうなんですか……でも、さっき物凄い音がしませんでした……ッ!?」
エレナは彼が無事だった事に安堵しつつ、彼の眺めていた倒木に視線を向けて、驚きのあまり目を見開いた。
その倒木は、エレナ独りでは抱え切れない程の太い幹の真ん中から折れていたのだが、その折れた箇所はまるで巨大な金槌で振り抜いたようにささくれ立ち、おまけに黒く焦げた焼け跡から薄く煙が漂っている。どんな生き物がやったにせよ、そんな異常な力の持ち主が木だけ倒してハンスを放置し、そのまま立ち去るとは先ず思えない。しかし、彼は平然と目の前に居るのだから、不自然である。
更に倒木の先の地面は抉られたように吹き飛び、真新しい土が剥き出しになっているのだ。それはまるで天に届く背丈の巨人が戯れに投げた岩石が、途方もない速度で落下した痕跡のようである。
「……あれは、一体何が……」
次々と目に飛び込む異常な光景に思考が追い付かず、呆然と立ち尽くしながら呟くエレナに、ハンスは少し考えてから、正直に打ち明けた。
「……俺が……いや、俺の【鋼の虎】がやったんだよ」