⑰新たな使役獣
エレナの前で祠の片開きの扉がゆっくりと内側から押され、壁の割れ目に差された松明の光に照らされながら、徐々に開いていく。
彼女は固唾を飲みながら扉の動きに注視し、果たして向こう側から現れるのはどんな使役獣なのか、想像する。
初めてハンスと顔を合わせた時は、勢い良く扉が開かれた。彼が蹴り開けたせいだが、そうした開け方は力の強い使役獣なら相応しいだろう。逆に今のような慎重な開け方ならば、姿を現すのは力より素早い動きで場を制する獣かもしれない。
(……早く、姿が見たい……!!)
純粋な興味と強い願望に駆られながら、エレナの視線が扉の隙間から覗く暗闇に注がれる。
そして、遂に半分まで開いた扉の縁に……白い指先が掛かり、新しい使役獣が顔を覗かせたのだが……
「……何だ、ここは……キエフじゃないのか?」
エレナにも判る人間の声と共に姿を現したのは、ハンスと出会った時と同じように、彼女が見た事の無い服装の少年だった。
「……ま、また人間なのぉおぉーーーっ!?」
エレナの叫び声に、思わず通路の向こう側から飛び出したハンスが目にしたのは、絶望の余り座り込んで自失茫然のまま、天井を見上げるエレナの後ろ姿と、
「……くそっ!! クラウツ(※キャベツを食べる奴の意味でドイツ人に対する蔑称)かっ!?」
そう叫びながら肩に提げていたライフル銃を構え、ハンスに向けて照準を合わせようとしている、エレナと同じ位の若さの少年だった。
(……参ったな、モシン・ナガンか……)
ハンスは彼の持つライフルを見て、その威力を良く知っているだけに緊張する。ソビエトを始め様々な国で造られているボルトアクション式のライフル銃だが、平均的な基本性能と単純な構造から国を問わず各軍で扱われ、腕の立つ者が持てば恐るべき威力を発揮する、名銃の一つである。
しかし、問題は彼の目の前に立つ少年が発した【クラウツ】と言う言葉だ。ハンスを見た瞬間、その姿からドイツ兵を連想し、直ぐ様口から飛び出したのが差別的な単語で、しかも彼の服装は典型的なソ連の赤軍兵士が身に付ける野戦服とくれば……ハンスを撃っても不思議ではない。
だが、ハンスを撃ったとして、彼の能力が発揮されて銃弾が弾かれた場合、跳弾した弾がエレナに当たる可能性が有るのだ。狭いゴブリンの巣穴ならば、弾かれた先で更に跳弾し横回転を起こしながら被弾するかもしれない。エレナの柔肌にそんな弾が当たれば、彼女の命は容易く脅かされるだろう。
「……ああ、そうだ。俺はドイツ人だ。そう言う君はロシア兵か?」
慎重に言葉を選びながら、ハンスが問い掛けると、少年は素早く彼の心臓目掛けて銃口を向けながら、
「黙れっ!! ファシストは皆殺しだ!!」
そう勢い良く叫び、引き金に指を掛けて力を込めようとするが、
「ダメですっ!! ハンスさんはあなたの仲間なんですから!!」
エレナが彼の前に立ち塞がり、身を挺して護ろうとする。
「ど、退けっ!! ドイツ人がどれだけ酷い事をしてきたか……?」
そう叫ぶ少年は、ふと感じた奇妙な点に気付いて引き金に込めていた力を抜き、自分自身の身体を眺めてから呟いた。
「……何だ、このブカブカな服は……?」
エレナが脱いで畳んでおいた衣服を身に着けている間、ハンスは新たに現れたソビエト連邦の少年兵と廊下で対峙していた。
「……キエフでもなく、ユーラシアでもないだと?」
「そうだ。地名はともかく、ここは我々の知っている場所の何処でもないんだ」
そう説明するハンスに対し、少年兵は露骨に嫌そうな顔をしながら、
「ファシストってのは、真っ昼間から寝惚けとるのか? 大体何なんだ此処は……魔女の隠れ家か?」
そう言うと自分の出てきた祠(エレナは二人から見えない場所に居る)を顎で指し、続けてハンスの顔を改めて見る。
「……まあ、当たらずとも遠からず、なんだが。ところで、君はドイツ語は…」
「おいっ!! さっきから黙って聞いてりゃあ調子に乗りやがって!! 俺は立派な大人……だったんだぞ……今は、こんなナリしてるがな!」
彼はそう言いながら、サイズの違う野戦服の袖を捲り、何とかしようと苦戦し始める。
「……ドイツ語なんて、知らん。話した事も無い……」
「自分もロシア語は苦手だ。なのに、お互い会話に不自由していないのは、何故だか判るかい」
「知らねぇよ、そんな事……」
サイズ調整に手間取ったものの、漸く状況を飲み込み始めたようで、少年の姿のロシア兵がぼそりと呟いた。
「……俺は、キエフを奪還して……そこの教会の上から撃ちまくってた。ドイツ兵を、一人づつ……それで、部屋の扉が勝手に開いたから敵が来たと思い、隣の部屋に飛び込んだら……」
「……此処に来た、って訳か。自分は、ハンスだ」
「……俺は、イワノフだ」
互いに名を名乗り合い、少しだけ空気が柔らかくなった時、祠の前で着替えていたエレナがやって来た。
「イワノフさん、私はエレナです! ……まだ、事情は良く判らないと思いますが、宜しくお願いします!」
「……あ、ああ……宜しく……」
どうやら彼は言葉遣いとは裏腹に、実直な性格らしく、エレナの挨拶に応じるとライフル銃から弾倉を外し、
「……しょうがねぇから、暫くの間は休戦してやる。でも、クラウツはクラウツだからよ……妙な真似したら承知しねぇぞ?」
仕方ないと言いたげにそれだけ告げると、プイと顔を背けたまま外に向かって歩き出した。