⑯地の底の匣(はこ)
ハンスの持つ短剣がゴブリンの耳朶に触れ、ざりっ、と耳障りな音を立てながら切り取る。
まだ息の根が有ったのか、僅かに瞼が震えたものの、ハンスは止めを刺す事もせず放置し、屈んでいた身体を起こすと次の死体に向かって歩き出す。
粗末な麻袋に耳朶を集めながら、彼は出掛ける前にアルベルナから聞いた話を思い出していた。
【ゴブリン達は全部が全部、血に飢えた魔物って訳じゃないんだ。中には人に混じって平穏に生きていたり、集落で平和に暮らしている連中も居るからね……】
(……結局、見た目が違うだけで、戦争していた俺達と同じだな)
耳朶を切り取りながら、ハンスはアルベルナの言葉を反芻し、自分が置かれていた境遇と彼等を重ねる。ソ連の兵士を殺し、その死体を打ち捨てたまま戦い続けた自分と、魔に染まって暴虐の限りを尽くし、ハンスに狩り殺されたゴブリンの違いは何だと言うのだろう。そして、もし自分が逆の立場になった時……果たして、エレナを護り通す事が出来るのだろうか。
「ハンスさん……大丈夫ですか?」
「……ああ、問題ない。少しだけ……考え事をしていただけさ」
直ぐ傍までエレナが近付いていた事に気付かなかったハンスが、彼女を安心させる為に語りながら立ち上がり、ズボンの裾を軽く払った。
「……そう言えば、アルベルナさんが言っていたゴブリンって彼等の事なんですよね」
「そうじゃないか? 他に沢山巣穴がある訳じゃなさそうだし、地下で何処かに繋がっているなら話は別だが……」
そう語りながら、ハンスは自分の言葉にハッとする。
「いや、待てよ……流石に長い距離を繋げられる事は無いにしても、本当に全て片付けられたのか?」
最後のゴブリンの死体から離れながら、ハンスはゴブリンの塒を眺める。一見すると岩の間に人間が這い入る隙間はなさそうに見えるが、ゴブリン達が長く出入りしたせいで岩の角が磨かれ、土も抉れて人が一人位なら中に入れそうである。
「……やれやれ、討伐はまだ続きそうだな」
ハンスはぼやきながらゴブリンの巣穴に近付くと、エレナに松明の類いは無いかと尋ねながら入り口に屈み込んだ。
「……ハンスさん……鼻がもげそう……」
「……ああ、くそ……こりゃあ酷いな……」
エレナに松明を持たせて後ろから照らしつつ、ハンスが先に立って巣穴の中へと入ったのだが……二人は余りの悪臭に辟易する。しかし、中に踏み込んだものの居残りは居ないようだ。狭い土の穴の中で戦う事を避けられたハンスは安堵しながら、巣穴の奥へと更に進む。
狭く人一人が通るのもやっとの中だが、所々に寝床や食い残しの骨等が散乱する空間があり、そこに残された遺物の中に目を惹くような物が無い事を確認しつつ、二人は更に奥へと進んでいった。
「……ん? 行き止まりみたいだが……」
「えっ!? これ……まさか!?」
だが、奥底まで進んだ二人が見つけたのは、搔き集められた平たい小石をケルンのように積み重ね、床から高く築かれた土台の上に置かれた物。
「……どうしてこれがゴブリンの巣穴に!?」
叫ぶエレナの視線の先に有るのは、二人が出会った時の【獣従士の祠】と同じ形状の、石の箱だった。但し、その箱の周りにはゴブリンが描いたのか、赤い染料のようなものが蛇のようにのたうっていた。
「ゴブリンが運んで来たのか? しかし、連中に価値が有る物にはとても思えんが……」
ハンスが半信半疑のまま呟くが、エレナは一つの可能性に気付く。
「もしかしたら……【ゴブリン・シャーマン】が廃村から盗み出したのかもしれません」
「なんだ、そのシャーマンってのは?」
ハンスの疑問に、エレナは言葉を選びながら説明する。
「……はい、ゴブリンの中には【旧き外界の神】と交信し……僅かに精霊を操る能力を持った降霊師と呼ばれる者が、時折現れるそうです」
「そうか、でも却って好都合じゃないか? わざわざ廃村まで出向かなくても、ここで新しい使役獣と……」
そう言ったハンスだが、その先を口にせず暫し考え込む。
(……待てよ、ここで新しい使役獣とエレナが出会えたとすると……俺の役目は終わりって訳か……)
しかし、ハンスと同様にエレナも祠を眺めながら、その事実に気付く。
(……この祠で新しいテイム・ビーストと出会えれば……ハンスさんとはお別れになっちゃうんだよね……)
エレナとハンスはたったの三日程だが、寝食を共にしながら旅を続け、ここまで来たのだ。それを次の相手が見つかったからとは言え、簡単に関係を解消出来る訳でもない。
互いに同じ思いを心中に秘めたまま、言葉を交わさずエレナは祠に塗られた染料を落ちていた端切れ布で拭い、ハンスは出来るだけ綺麗になるように散らばったガラクタや屑を壁際に押しやって、簡単な掃除を済ませる。
「さあ、折角の機会を逃したら意味ないぞ? エレナ、早く契約とやらを済ませるんだ」
互いの作業を終えたハンスはそう声を掛けながら、エレナから松明を受け取ろうとして手を差し出した。
「……そうですね、判りました。では……契りの舞いを行いますので、待っていてください……」
少しだけ躊躇してから松明を手渡したエレナは、身に付けていた野外着に手を掛けてから、
「……あの、服を脱ぎますから……」
「……あっ? ああ……判った、待ってるぞ」
率直に言うと、ハンスは慌てて部屋の外に行き、エレナの視界に入らぬよう気を遣いながら待つ姿勢になる。
「……よし、始めましょう!」
エレナは初めてハンスと出会った祠の時と同じように薄着になると、肩幅に広げた膝を緩やかに曲げながら腰を落とす。
静かに息を吸ってから呼吸を止め、腹の奥に少しづつ気の流れを留めながらゆっくりと吐く。その間隔を徐々に広げて長くし、呼吸の限界まで達したその時を境に、一切の思考を停止させる。
……りん。
手首に着けた鈴が鳴る。
……りん、りん。
足首に着けた鈴が鳴る。
……りん、りん、りん。
手足に着けた鈴がリズミカルになり、呼吸を停めていたエレナの頭がくらくらと揺れ、その動きに合わせて鈴の音が小刻みに揺れる。
軽い没入状態に陥ったエレナは、何かに求められるまま身体を委ね、四肢を嫋やかに揺らしながら宙を舞う。
【獣従士】は男女共に就ける職種だが、その行動理念は全く異なる。男は魔力が無い故に、体当たりで使役獣との信頼を積み重ねて行動を共にするが、女は魔力を消費して目に見えない絆を深め、言葉を交わさずとも意志疎通すら可能にする。
エレナが行っている【獣従士の舞い】も女性特有の技能で、魔力を用いて使役獣と魂魄の契りを交わし、深い交流関係を可能にしているのだが……今の彼女には関係の無い事である。
……り、りりん。
そして、遂にエレナの舞いが終わった瞬間、ハンスの時と同じように祠の扉が開き、向こう側から新たな何者かが姿を現した。