⑫祝いの宴
「はい! お待たせいたしましたー!!」
元気いっぱいな明るい声と共にハンスとエレナのテーブルの上に運んで来た料理を置き、店員は二人に向かって説明を始める。
「こっちのお皿はバジリスクの卵を使った……えーっと、ししょーっ!! 何だっけ!?」
(……チャワンムシ、だよ全く……)
「そー、そのムシムシ!!」
大きなカップに入れたそれを置きながら、店員は厨房の店主とやり取りしつつ載せられていた蓋を取った瞬間、ハンスは湯気と共に現れた濃い緑色の中身を見て、先程まで感じていた料理への期待が音を立てて崩れ去った気がした。
(何だと!? 緑色の卵なんて見た事無いぞ!! それにムシって何だ……虫なのか?)
期待から困惑へと変わり始めた料理を前に、ハンスの不安は深まるばかりである。とは言え、目の前に自分よりこの環境に詳しいエレナが居た事を思い出し、一縷の期待を籠めて尋ねてみる。
「……エレナさん、バジリスクの卵って、良く使われる食材なのか?」
「……いえ、私も初めて見たんですけど……」
どうやらハンスと同じだったようで、彼女は恐々と中身を覗いてから、困惑の表情で見返してくる。
「で、コッチはミノタウロスの……ち、ちゃんじょん……ろーそぉ?」
(あー、青椒肉絲だけど、炒め物でいいから……)
「判ったー!! ミノタウロスの炒め物だね!」
店員と店主のそんな会話を聞きながら、次に差し出された皿は緑色の野菜と、ミノタウロスとかいう動物(ハンスの知る生き物の中に居ないが)の肉が茶色いソースにまみれて鎮座している。ハンスはこの料理がどんな物なのか一切判らず、再び暗澹たる気分になる。
「は、ハンスさん……とにかく頂いてみましょう!」
エレナの声も何処と無く震えていた気がするが、ここは男として先陣を切るしかなさそうだ。そう思ったハンスは重い気分でスプーンを持ち、先に出された緑色の方から食することに決めた。
(……ほうれん草が混ぜてあれば、こんな色になるかもしれんなぁ)
重く沈む気持ちを奮い立たせ、知り得る知識を総動員しながら、自分の前に置かれたそれをスプーンで掬い、渋々口の中へと運ぶ。まだ出来立てで熱さの冷めぬそれは、意外に滑らかな舌触りは見た目の印象とは全く異なり、予想外の味なのではと身構えていたのが杞憂でしかない。
(……あふぅっ!! ……思ってた以上に熱いが……っ!?)
だが、ハンスの味蕾はそんな些末事を超越し、貪欲に舌に載った未知なる食物に対する情報を求め、暴走し始めたのだ。
(な、何だこれはっ!! プディングに似ているがプディングでなく……玉子? いや、いや……有り得んぞ……)
今しがた口に入れたばかりの異物が、突如至高の存在へと昇格し、そしてまろやかな風味そして溢れんばかりの滋味に愕然とする。果たしてそれは緑色の卵自体が醸しているのか、それとも彼の知らない未知の物体が導き出す新たな味覚のバリエーションなのか、彼には判らなかった。
(……チャワンムシとか言ったが、何なんだこれは……風味は良いし、味も良い。それだけじゃない、とろりとした中に……サクサクした野菜や肉……これは、鶏肉か!?)
無論、ハンスはチャワンムシという東洋由来の料理を知っている訳も無く、中に鶏肉等の具材が入っている事に更なる驚きを得たのだが、
「……ハンスさん! これ……とろとろしてるのに香りも良くて……見た目の色から想像も……はあぁ、美味しいですねぇ……」
エレナは更に感動したのか、次第に口数を減らしながら結構な量のチャワンムシを平らげていく。緑色の見た目に最初は戦々恐々の二人だったが、その味は濃厚な黄身の風味が力強く、丁寧に濾して引き出される滑らかな舌触りと突き抜けるような出汁の味に、全ての警戒心は瓦解していった。
残念な事にどれだけ美味であっても、必ず完食が訪れる。それは二人に提供されたチャワンムシも同様である。至福の時の終わりに近付きハンスは一瞬、また同じ物を食べたくなったのだが、
(……いや、まだもう一つ有るじゃないか……!!)
そう、まだ彼等の前には【ちゃんじょんろーそぉ】とやらが控えているのだ。ミノタウロスが何だか良く判らないが、名前を聞いてもギリシャ神話の怪物しか想像力出来なかったハンスは、似たような牛程度のイメージしか無かった。
「エレナさん、ミノタウロスとはどんな牛の種類ですか?」
「……えっ? ミノタウロスって、ヒトに似た身体に牛の頭が付いた魔物ですが……」
「……はいぃ?」
エレナの返答に、ハンスは全身を凝固したまま何とか声帯と口を動かして、やや裏声気味になりつつ答えるのが精一杯だった。
(ま、魔物だと? しかも牛頭の人間……いや、ヒトの身体を持った牛なのか?)
ついさっきまでの幸福な気分の絶頂から、一気に不安と絶望の崖っぷちに立たされたハンスは、見た目だけはやはり旨そうに見える料理を眺め、複雑な気持ちになる。
「……やはり、慣れた味の慣れた料理が一番か……」
諦めの暗い闇に沈むハンスは、エレナの手前だという事を思い出し、せめて表情だけでも取り繕おうと口角を無理に吊り上げながら、フォークに肉と野菜の数片を纏めて刺すと、無我の境地で口の中へと押し込んだ。
(……あ、旨いぞコレ)
だがしかし、ハンスは再びどん底の境地から晴れ渡る空に到達し、更に高みを抜けて雲海の上へと到達した……いや、それ程の落差で至福の極致を迎えた彼は、舌に存在する味蕾の全てで【ちゃんじょんろーそぉ】を味わい尽くす事に決めた。
先ず、口の中に有るミノタウロスの肉である。あれだけ脅された(ハンスが勝手に想像しただけだが)魔物の肉だが、そもそも肉自体に恐ろしい印象は一切無い。至極普通の畜肉である。やや固さを感じるが、噛み応えと思えば決して悪くない。舌触りも赤身の繊維質な肉に近く、身の解れ具合と共に好感が持てる範囲だ。
この肉だけでも充分、料理の材料として優秀なのかもしれないが、共に調理されている緑色の野菜がまた、個性に満ち溢れていたのだ。
先ず、一口目の歯応えからサクサクと心地好く、軽やかな食感が歯茎を優しく刺激し思わず口元が緩んでしまう程。味は単体では若干ほろ苦い風味も有るには有るが、炒めてあるお陰で嫌な雑味にはなっていない。
その個性的な野菜と肉を旨い料理へと昇華させているのが、二つの食材に絡められた茶色いソースである。ハンスの舌では詳細な素材の判別は付かなかったが、明らかに複数の野菜を混ぜ合わせて調合し、複雑な配合の末に生み出されたのだろう。
それを裏付けるように、甘さと香ばしさそして塩味の融合したそれが肉と野菜を纏め上げ、至高の逸品に昇華させているのだ。そう、高温で炒めて若干の焦げた風味に近いにも関わらず、苦さより香ばしさ、そして短時間調理で引き出されたであろう、各々の小気味良い歯応えに繋がっているのだが。
「……これも実に旨いな、エレナさん!」
「……はい! そうですね!!」
二人の思考は流石にそこまで複雑ではなかったが、それはそれで幸福な事である。