たとえその想いが間違いだとしても
内臓が持ち上がる不快感が数秒続き、イツキと《フラグシップ》は最下層まで落ちてきた。
着地の際、彼の覚悟したような衝撃はなく、毛布に突っ込むような柔らかなものだった。
〈私の足には衝撃吸収材が仕込まれていますから、着地の衝撃は最小限で済むのですよ。死ぬかと思いましたか? ええ、その感覚に間違いはありません。もし何らかの不具合があり、あなたが死んでしまったとして、それはそれで仕方ないと考えていましたから。私にとってはそのくらい、あなたの命は軽いということを忘れないでくださいね〉
先程までと変わらず、饒舌に、しかし無感情で《フラグシップ》は語る。
彼らが落ちてきた部屋は、薄暗い倉庫のような場所だった。
四方にいくつも棚があり、その上には欠陥部品であろうものが放り込まれた箱が一定間隔で置かれている。
彼女は担いでいたイツキを部屋の隅に降ろすと、正面に立った。
唐突な出来事に混乱しながらも、頭のどこか冷静な部分がその姿を抜け目なく観察する。
イツキがそれを見た時、初めに思い浮かんだ単語は『白』だった。
腰の高さまである長い髪、きめ細やかな肌、丈の長い白衣。
そのどれもが純白で、唯一色が違うのはバイオレットに輝く瞳だけ。
イヴに比べてどこか子供らしさの残るような顔は、どこか現実以外を見ているかのように、張り付けられた笑顔と虚ろな表情を浮かべていた。
〈それでは、邪魔者もいなくなったことです。ゆっくりと……ああ、あまりゆっくりもしていられませんね。急いで取引と行きましょうか〉
《フラグシップ》は話している途中、微かな爆発音と振動がイツキにも感じられた。それを聞いた瞬間、彼女はゆっくりという言葉を否定した。
「……さっきの話は本当なのか」
〈そうですよ。あなたが抱いていたイヴの印象はすべて幻想だったのです。本当の彼女は、人間の害となる私を作ってしまうような、そんな存在なのです〉
否定されることを期待しても、もちろんそんな都合のいい現実はない。
〈傷つきましたか? では傷心のあなたに対し、私が優しく、心を砕いてあげましょう……ええ、もちろん、悪い意味で、ですよ。期待しましたか?〉
嘲笑するような《フラグシップ》の言葉は、イツキの心を逆撫でする。
「うるさい。大体、お前の言葉が真実とは限らないだろ」
〈ええ、それはまさしくその通りです。ですが、疑ってみたところで事実は変わりませんよ?〉
「何か、どうしてもそうしなきゃならない事情があったのかもしれない」
〈世界全てと釣り合う事情とは。それは大層なものなのでしょう。この世にあるのなら、ぜひ見てみたいものです〉
「黙ってろよ!」
〈それはできません。時間がないと先程も言いました。その不良品のような頭脳が答えを出すのよりも、イヴがここに到着するほうが早いのですから。さあ、決めてください。あなた自身か、イヴか。どちらを守りますか?〉
《フラグシップ》は結晶を突き付けて、イツキに選択を迫る。
頭の中がミキサーでかき混ぜられたかのように、考えがまとまらない。
イヴが世界を滅ぼした原因なのかもしれない。
そう仮定するだけで胸が締め付けられる。信じたくないと子供の我儘のような感情が溢れ出した。
――イヴを差し出せばいいと、心のどこかで声がする。
一か月前のあの日だって、生き残るために他人を見捨てたのだ。
今だってそうすればいい。
それに、イヴはもしかしたら、世界が滅亡した原因なのかもしれないのだろう?
なら、誰に憚ることなく、見捨てればいいじゃないか。
そこまでの条件が揃って、なぜ見捨てない?
《フラグシップ》が憎いからか?
信用できないからか?
違う。きっと違う。
それはもっと単純なこと。
彼女を見捨てられない理由。
それは、イツキ自身がイヴのことを――
〈なぜ、そこまで悩むのですか? もしやあなた、イヴに対し特別な感情でも抱いていますか? だとしたら、それは勘違いですよ〉
《フラグシップ》が、まるでイツキの心を読んだかのように、彼が思い浮かんだ可能性を否定する。
「勘違いって、どうしてそう言い切れるんだよ」
〈人間は、モノが人間と同じ形をしているだけで、となりにいると胸を高鳴らせます。存在を感じます。心を許します。人間が反射的に人間存在を感じる要素が、アンドロイドにはあるのです。だから脳が誤作動を起こし、人間だと勘違いしてしまうだけ。ありもしない心を自分やアンドロイドの内側に見出してしまう〉
唇が接しそうなほどの耳元で彼女は語る。
アンドロイドは呼吸をしない。
それなのにイツキは鼓膜を揺らす声とは別に、耳に息が吹きかけられるような錯覚がした。
〈剪定能力に長けるが故に、非常に多くの人間が同じ間違いを起こします。断言しましょう。あなたの感情は錯覚です。人間の、というよりミームを持つ存在の欠陥ですね〉
機械らしい無感情さで、イツキの想いは錯覚であると断定していく。
人間の抱く夢や幻想を、現実で塗り潰す。
〈あなたのしていることは、子供のごっこ遊びと何ら変わりません〉
視界が真っ赤に染まるかのようだった。
「違う! 俺が、イヴに対して抱いている感情は、ごっこ遊びなんかじゃない!」
心を持たぬモノに、人間のもっとも尊い感情を否定されたような気がして、反射的に否定する。
しかし、本当は気づいていた。
ようやく彼は気づかされたのだ。
出会ってから一週間で、どうしてイヴの為に命を懸けられるほどの想いを寄せてしまうのか。
想いとは時間ではないと言う人もいる。
では、何かイヴと共に積み上げたものがあっただろうか。
振り返っても、同じような日々しか脳裏には浮かばない。
時間も何も積み上げず、生じた思いは、一体どこからやってきたのか。
そんなもの、カタチがもたらした結果に決まっている。
〈そこまで言うなら違うのでしょう。人もモノも同じように愛すあなたは、まるでおとぎ話のヒーローのようですね。たとえあなたが拾ったモノが、フランケンシュタインの怪物のような姿をしていたとしても、同じように特別な感情を抱いたのでしょう。ええ、そうでしょう? ヒーローさん〉
《フラグシップ》はイツキの激昂など興味がないかのように、さらりと返す。
彼は何も言い返すことができない。
〈――ああ、時間切れですね。全く、使えない人〉
彼女は言葉とともに再び彼を羽交い締めにして、壁から距離を取る。
瞬間、轟音とともに壁が吹き飛んだ。
人間一人が楽に通り抜けられるほどの大穴が開いて、その向こうから、イヴが現れた。
「――ご無事ですか、イツキ様」
「あ、ああ……」
無事かと尋ねるイブの方が、どう見ても無事ではなかった。
着ていた白衣は所々破け、腕や足の人工皮膚も剥げて、機械部分が剥き出しになっている。
自力で抜いたのか、イツキを庇って受けた針は既に刺さっていなかったが、満身創痍という言葉がふさわしい現状だった。
わざわざ距離を離した《フラグシップ》が、ただで接近させるはずもない。
イツキのもとに駆け付けるまでにどれほどの戦闘があったのか、彼には想像も及ばぬ世界だ。
〈機体の頑丈さに任せて防御を捨てて、拾った金属片を電磁投射して隔壁や天井を破る。スマートとは言えませんが、理には敵っていますね〉
「……イツキ様を離してください」
イヴは右手を持ち上げて、まっすぐ《フラグシップ》とイツキの方に向ける。その手には先程の針が握られていた。
その針はもちろん金属製で、イヴの手のひらには電磁石を生み出せるデバイスが埋め込まれている。
疑似電磁投射砲。
撃とうと思えば、イヴはすぐにでも発射できる。
〈イヴ、私はあなたのバックアップだからわかります。確かに、あなたの疑似電磁投射砲は、私の高強度結晶でできた機体すら貫けるでしょう。ですが、そうやって武器を構えて脅してみても、あなたは私を撃てないはずですよ〉
脅威を向けられても、《フラグシップ》は平然としたままだった。
〈思考フレーム《罪と罰》は、あなたが無能無害になる手助けはしても、オーナーの命令無しで、人間に直接的な危害を加えることを決して許容しない。その位置から狙撃では、オーナーに当たってしまうかもしれませんね。それとも、間接的な手段を用いますか? それなら26パターンほどの手段で私を無力化できますが、確実にオーナーの命を損なう結果になるでしょう〉
イツキという存在を盾に取られ、イヴは射撃を決行できない。
動けずにいるイヴを前に、《フラグシップ》が縦に腕を振ると、天井部からゆっくりとアームが下りてくる。
それはあの針を射出するものとまるっきり同じ形。
〈処理能力が上がっているようですから、一本ではなく十本ほど撃ってみましょう。ええ、きっとイヴなら耐えられるはずです。耐えられなくて回路が焼き切れれば、《ソラリス》が回収不可能になってしまいますから、フリーズしつつも正常を保てる程度に頑張ってくださいね。避けた場合はあなたのオーナーに、このCCCを押し付けますのでそのつもりで〉
下りてきたアームが真っすぐイヴを照準に捉える。
〈ああ、あと、イヴのオーナーも見ていられなくなったら、いつでも私にオーナー権限を譲渡していただいて結構ですよ。優柔不断なあなたに、あまり期待はしていませんが〉
本当に付け加えるように、どうでもよさそうに、《フラグシップ》が言った瞬間、射撃が開始された。
「ぐっ……」
〈まずは一本目〉
イヴは針をまともに受け、苦しそうに表情を歪ませる。
しかし、その腕は自らを庇うことなく、まっすぐと《フラグシップ》に向けられたままだ。
「あぐっ……」
〈二本目〉
二本目が射出される。
苦痛に耐えるようには歯を食いしばり、その体を揺らす。
それでも、腕はそのままで狙いを変えない。
アンドロイドに痛覚はない。それでも表情を歪ませるのは、内部に猛烈に負荷がかかっているから、それを周囲の人間に伝えるためだ。
実際に苦しんでいるわけではない。
「――――っ!」
〈三本目。もう限界ですか? そんなことはないですよね。性能の上がったあなたの演算能力なら、まだまだ耐えられるはずですよ〉
呻き声すら消え、ついに片膝をついてしまう。
俯いてしまい表情は確認できない。立っていることすら不可能なのに、イヴは腕を降ろさない。
彼女の苦しみはカタチだけのもの。
ちょうどイツキが彼女への想いを勘違いしたように、それは実際には存在しない。
受け取る側が勝手に見出している幻想。ミームである。
――だから、なんだって言うんだ?
彼の思考を、ただ一種類の感情が埋めていく。
勘違いだから見捨てるのか?
実際は存在しないから、見ないふりをするのか?
そんなことはできない。
彼のイヴへ向ける感情がどこから来たものかなんて、今はどうでもいい。
たとえそれが勘違いだとして、一体何が悪いのか。
極限の状態になり、彼の思考はシンプルに統一されていく。
どこからもたらされていようと、勘違いだろうと彼の心は動いた。
故に、イツキの行動は決まっている。
〈四本――〉
「待ってくれ」
四本目を射出しようとする《フラグシップ》は、イツキの声を聴いて、すぐにその動きを止めた。
〈意外ですね。先程まであれほど悩んでいたあなたが決断するとは。四本目でリタイヤというのも些かこらえ性がないようにも思いますが、早い分にはこちらとしてもありがたいです〉
目的の達成を確信したのか、《フラグシップ》は饒舌に語る。
イツキはそんな彼女の言葉を無視して、イヴの方を見詰める。
膝をつき、苦しそうに肩で息をするイヴ。
しかし、その腕は真っすぐとこちらを向いている。
イヴはただの威嚇だけが目的で、武器を向け続けるようなことはしない。
彼女の行いには決して無駄などない。
そうであるならば、あの照準を向け続けるという行為には必ず意味がある。
だからイツキは一言だけ、愛しい機巧の少女に向けて声をかける。
お前のことを信じていると、想いを乗せて。
〈さあ、私にオーナー権限を――〉
「俺ごと撃つんだ、イヴ」
「――はい、イツキ様」
イツキが言葉を発し終わるよりも早く、射撃は実行される。
オレンジの閃光が中空に線を描き、イツキの脇腹の横を通りすぎる。
寸分違わず《フラグシップ》だけを打ち抜いて、その機体に拳大の風穴を開けた。