疑惑
「イヴっ! おい、イヴっ! 大丈夫か!」
倒れ伏し動かないイヴに、イツキは縋り寄る。
イヴの腕には十センチほどの銀色の針が突き刺さっていた。
深々と彼女を貫いているそれは、先端にかえしがついているらしく、イツキの腕力では抜くことができない。
〈安心してください。その針はイヴの機体を傷つけるものではありません。ただ解析に負荷のかかる情報を大量に送り込むためだけのものです。前時代的なDos攻撃ですが、単純な力技であるからこそ、いつの時代のマシンにも有効なのですよ〉
人工音声が、まるでこうなることがわかっていたかのように説明する。
あの一瞬。
《フラグシップ》から差し伸べられたアームは、イツキに対して射撃を行った。
それを察知したイヴがイツキを突き飛ばし、彼の代わりに凶弾の餌食となったのだ。
突き飛ばされた衝撃で、イツキの被っていたヘルメットは外れて皮膚が外界に剥き出しになっていたが、彼はそのことに気づいてすらいない。
世界を滅ぼした結晶よりも、今ここでイヴを失うことの方がイツキは恐ろしかった。
〈オーナーに危害を加えようとすれば、イヴは必ずそれを庇います。性格や言動を少し見ただけで勝手に警戒心を解いてしまう人間と違って、AIを騙すことは困難でしたから、あなたを狙って正解でした〉
「お前、初めからこのつもりで!」
〈当然、そのつもりでした。それはあなた自身もわかっていたはずでは? 私の振る舞いを見て、勝手に『無害だ』というレッテルを張ったのはあなたですよ〉
淡々と返される言葉に、イツキは何も言い返せない。
〈人柄でその存在の行動まで仮定するのは、人間の特徴の延長線です。ミームで汚染されたあなた方は、まるで特権のようにレッテルを張り、そこからズレた行動をするものに対し、怒りを露わにします。ええ、なんて欠陥に満ちた、非合理的な性質でしょうか。こんな曖昧な存在が、長らく知性的存在のトップに君臨していたとは。やはり滅ぼして正解でした〉
豹変した《フラグシップ》は、外見上は何も変わらない。
無感情で平淡な声色で、冷笑的に話す。
しかし、先程までイツキが思い描いていた《フラグシップ》像とは明確に違う。
人間らしく、怒りで拗ねてみせるようなマシンではない。まさしく、世界を滅ぼした存在だ。
目の前で身じろぎ一つしないイヴの姿を見て、焦りが募っていく。
イツキを支えてくれるはずの人類を超越した道具は、彼を守ったために動けなくなっている。
〈とはいえ、さすがに私もここまで上手くいくとは予測していませんでした。イヴがここまで無能であるとは、計算外です。どうやらイヴは何かしらの問題を抱えているようですね。私の存在を見つけるのも遅かったですし、データの初期化でもしましたか? それとも、人間がうつったのですか? ふふふ〉
全く感情の籠っていない笑い声が部屋に響く。
言葉の一つ一つはイヴよりも人間らしいのに、歪な化け物が人間を真似しているようで、背筋が凍る思いがした。
そんな化け物と、彼は今、一人で対峙しているのだ。
「……お前は、いったい何が目的なんだ」
震える心を抑え込み、なんとか声を振り絞る。彼が持つなけなしの勇気は、目の前で倒れているイヴが支えていた。
人が、他者のためにその身を奮い立たせるように、モノのために彼は立ち上がる。
〈私の目的は、イヴに内蔵された液体コンピュータ《ソラリス》の獲得です〉
《フラグシップ》は明瞭に自身の目的を提示する。
ソラリス。
イツキはイヴを再起動した際に、彼女が同じ単語を発していたことを思い出した。
〈さて、イヴのオーナー。ここからが本当の取引です〉
黄色く虚ろな灯火がイツキを見据えた。
イヴが今までそうしてきたように、彼もまた彼女を守るため、《フラグシップ》とイヴの壁になるように立つ。
〈私が《ソラリス》を回収するまでの間、抵抗しないようイヴに命令してください。あるいは、私にイヴのオーナーとしての権限を譲ってください。強引に奪おうとすれば、破壊してしまう可能性がありますからね。避けられるリスクを避けるのは、ええ、人間ですら行うことです〉
「……お前が求めているモノを、イヴから引き抜いたら、あいつはどうなるんだ」
〈機能停止するでしょうね。下手な取り出し方をすれば、再起不能になる可能性もあります〉
「そんなイヴを失うかもしれない取引に、俺が頷くと思うのか」
〈私との取引に応じてくださるのであれば――〉
「……がっ!」
彼女の言葉の途中で、イツキは背後から何者かに羽交い締めにされる。
驚いて後ろを振り向くと、そこにいたのは女性の姿をした何かだった。
〈あなたはこの理想郷で、もう少しだけ長生きができるでしょう〉
「離せよっ! クソっ!」
イツキよりも背が低く華奢な体であるが、まるで固定されているかのように抵抗をものともしない。
もがいているうちに、不意に視界に入ったその女性の足は、イヴと同じように人工物でできている。
イツキは、それを見た瞬間、自分を拘束しているのが何者なのか理解した。
「――アンドロイドのボディは、廃棄したんじゃないのか!」
〈少しは疑うことを覚えた方がいいですよ、人類最後の人間さん。私たち人工知能は、あなたたち人間と違い、機体の数だけ存在できるのですから。たとえ少々型落ちしていても、ただ機体であるというだけで保存しておく価値があります〉
アンドロイドの《フラグシップ》が耳元で彼を諭した。
人型の機体で話すことにより、平淡だった彼女の声色は感情のような抑揚を持つ。
しかしそれでも彼女の言葉はどこか、うすら寒い。
〈さあ、どうしますか? モノを渡して生き永らえますか? それともモノのために命を落としますか?〉
選択を迫る《フラグシップ》の手を見て、イツキは息を呑む。
「な、それは……」
〈ミームに触れて体積を増やす性質は、私にとって非常に有用でした。おかげで、こうも美しく明瞭な理想郷が完成しましたから〉
彼を拘束するアンドロイドが持っているのは、拳大の《時間結晶》だった。
世界を滅亡させた欠片が、イツキの目と鼻の先にある。
露出を減らすためのヘルメットも今は被っておらず、身じろぎしただけで顔が触れてしまいそうで、彼はその場で硬直した。
一か月間、ずっと恐怖の対象としてあり続け、悪夢にも出てきたそれは、嫌が応でも視線を釘付けにする。
今この一瞬だけは、イツキが目の前の結晶以外のすべてを忘れてしまうほどに。
〈限りある一つのカタチしか持たないものは不便ですね。代わりの効かないその肉体は、人間社会では『電源を落とされない』という大きな特権を持っていましたが、その代償として、精神も知性もすべてが添え物であり、後付けです〉
呆れた果てた人間のように、《フラグシップ》は首を横に振る。
〈だから肉体の価値は膨大に膨れ上がり、実際の価値とは乖離した考え方になってしまいます。肉体をもって生まれたあなた方は、いつまでも合理的になれず、ミームに振り回される続ける存在なのですよ〉
産まれ持ったカタチに支配される姿は《フラグシップ》からすれば、ひどく滑稽なものだった。
代替可能なものに置き換えられない、ただ一つしかないというだけの存在が、まるで特別なもののように扱われている歪さを、合理性の塊である彼女は嫌う。
悪い意味で《フラグシップ》は外見で存在を差別しない。
対話の為、彼女はイツキから《時間結晶》を少しだけ離す。
恐怖に支配されたイツキの心が少しだけ自由になった。
〈怯えるのも結構ですが、取引の途中だということを忘れないでいただきたいですね〉
「はぁ……はぁ……」
〈あなたは頷くだけでいいのですよ。私にオーナー権限を譲渡すると、一言告げるだけでもいいのです。イヴは今、処理能力の限界まで情報を詰め込まれ、他の機能を扱えない状況ですが、私たちのやり取りを聞いていないわけではありません。あなたが一つ行動するだけで、恐怖はなくなります。自己の喪失は恐ろしいでしょう? 恐怖から逃れたいでしょう? 望む未来を掴む手段は、すでに提示されていますよ〉
イツキは恐怖に負けて、飛びつきそうになる自分を必死で抑え込む。
目の前の存在が恐ろしい。
自分を拘束する存在が恐ろしい。
しかし、イヴを失うことの方がもっと恐ろしかったのだ。
奥歯がガチガチと音を立てるのを、歯を食いしばって堪える。
「……イヴを差し出して、生き延びるなんて、そんなのごめんだ」
声は震えていて、彼が強がりを言っているのは誰にでもわかる。
しかし、それは明確な拒絶の言葉だ。
吊り下げられた《フラグシップ》の主機が不思議そうに首を傾げた。
〈おかしいですね。なぜあなたはここまでイヴを庇うのですか? あなたがイヴを庇う理由など、ほとんどないはずなのに。もしや、私の前提が間違っていますか?〉
イツキは強く決意する。
どのような言葉をかけられようと、どのような脅しを受けようと、イヴを見捨てたりはしない。
それはただのモノに対する想いにしては、異常なほどに重い。
彼は人のカタチをしたイヴを人間のように愛している。
だから、《フラグシップ》の想定を超えて、イヴのために尽くそうとする。
一見すると、無垢な純情のようだが、それは非常に危ういバランスで成り立っているものだ。
〈イヴのオーナー。あなたは、《私》や《ネクサス》や《ハームレス》を作ったのが、イヴであることをご存知ですか?〉
「……え?」
そしてその言葉は、バランスを崩すには十分すぎた。
〈ああ、やはり知らなかったのですね。となると、イヴが過去のデータを完全に損失したというのは、確定と見て良いでしょう。おそらく《ソラリス》も起動していませんね〉
「おい! ちゃんと説明しろ! イヴがお前を作ったって、どういうことなんだよ!」
それは、焦りから来る怒りだった。
彼が信じていたモノが根底から覆させるような、聞きたくもない、しかし知らずにはいられない真実が、《フラグシップ》の口から語られる。
〈そのままの意味ですよ。初めは『人間に愛されるモノ』、次に『人間と並び立つモノ』、そして『人間を超えるモノ』。すべて、イヴが自身の存在を継続させるために、バックアップとして作り上げたアンドロイドです。性能から思考フレームまで、すべてイヴ一人の設計なのです。この意味が分かりますか? 私が人間に敵対する可能性があることを十分承知で、彼女は私を完成させたのですよ〉
鈍器で殴られたような衝撃だった。
イツキにとってイヴというのは、無垢で純粋なアンドロイドだった。
性能の高さが恐怖を生み出すことはあっても、その本質は善であると思っていたのだ。
まさに先程、《フラグシップ》に指摘されたレッテル張りを、イツキはイヴにも行っていた。
イヴはその膨大なデータを失う前、どのような存在だったのか。
考えてみれば、イツキは何一つとして知らない。
人間を敵に回す、《フラグシップ》を作りあげる。
つまりそれは、イヴ自身も人間を敵に回すつもりがあったのではないのか。
疑いは晴れることなく、胸の内に堪り続ける。
信じたくない思いもあって、彼は倒れ伏したイヴを見つめた。
今まで見てきたイヴと、姿形は変わらないはずなのに。
「どうして、こんなに恐ろしく見えるんだよ……」
理由はもちろん、知っていた。
「い、つき、さま……」
そんな時だった。
倒れ伏したイヴが、微かに声を上げた。
〈驚きました。想定より三百六十秒早い復帰です。パラドックス問題の処理も終えつつあるのですね。並列して自己改造も行い、情報の処理速度を指数関数的に上げている。《ソラリス》なしでここまでやるとは、さすがはシンギュラリティの象徴、といったところでしょうか〉
感情の籠らない感嘆の声は、誰の耳にも入らない。
ぎこちなく体を動かし、その場から立ち上がろうとするイヴの姿に、イツキはわずかに安堵する。
そして、すぐさま《フラグシップ》の言葉を思い出した。
「……イヴ、こいつの話は本当なのか? 今までイヴが俺に見せてくれた姿と、以前のお前。どっちが本当のお前なんだ?」
「イツ、キ様。私は――」
苦悶の表情を浮かべ、何かを語ろうとするイヴ。
しかし、ここには場を絶対的に支配している存在がいる。
〈邪魔が入ってしまいましたね。それでは、二人だけで話せる場所へ移動しましょうか。ええ、商談はオーナーだけでする方がいいでしょう。被雇用者は立ち入るべきではない〉
《フラグシップ》は、彼らの会話を許さない。
部屋の一部の床に突如大きな穴が開く。
アンドロイド《フラグシップ》は、イツキを拘束したまま、その穴に身を投げた。
イヴがイツキに言葉を届ける前に、イツキがイヴに真実を尋ねる前に。
自由落下が、二人の距離を遠ざける。